ねじの回転   

ねじだ。ねじがひとつ、まるでふってわいたかのように、部屋の片隅にぽつんとあるのだ。
つまみ上げてみると、ところどころ錆び付いてい、どこかのなにかをしめあげていたであろう歳月をそれは物語り、決して家具などに付属されがちな「なくした場合の余剰分」が、使われることなくどこかにしまわれていたのにひょんなことで床に転がり出たことを否定している。
じゃあだ。一体どこから緩んで外れてしまったねじなんだろうかと見回してみるのだが、その大本が皆目検討つかない。なんかぶらんぷらんと、宙ぶらりんな状態のものもこれといってない。
わからない。この一本のねじが、どこのなにをしめあげていたのかが。そして如何なる作用によって、ねじは、しめあげる逆回転を幾度となく繰り返して緩んでしまうというのか。

かように年末の大掃除における「どこから外れたのかわからないねじ」は、もはや冬の風物詩と言っても過言ではないほど、必ず出てくるものだ。そしてそれはどこから外れたのかわからないままに捨て置かれてしまう。どこかのなにかをしめあげていたはずの一本のねじは、どこかのなにかから緩んで外れてしまうのだったが、その一本ねじが外れてしまったどこかは、外れたことでなんら支障は来すことはない。
例えばだ。誰しもが大きな荷物を運ぶことがあるだろう。なにか長方形の大きな荷物だ。四隅の角に4人、長い二辺の中央あたりにそれぞれ1人づつを配置し、計6人がかりで持たないと運べないはずのかなり重い荷物だ。だのに、せーのっ、せ! で持ち上げてみると自分だけ重くないのだ。なんか楽なんですけど。でも言うのもなんだから、ちょっと重そうなフリをしてその荷物を運び終えてしまう。いらなかったかも、オレ。そんなことってあるよね。それだ。
「ねじを留めているすべてのものは、一本くらいねじはいらない」。

標語にするならこうだ。「ねじ一本、とめてなくっても大丈夫。」
こうして毎年のように、床にひとつねじが転がるのだ。自分では、しっかりモノとモノをつなぎ止める役割の一端を担っていると思っていたのに、外れて知る自分の無能さ。必要とされていなかったという事実。生まれてこなければよかった。
「かわいそうなねじ」というタイトルで、童話のひとつでも書けそうな勢いだが、逆にいうならばこうだ。
「しめすぎニッポン」。
いや、日本に限ったことじゃないかもしれない。「しめすぎ人類」。

きっちりきっちりしめ過ぎずに、何事も緩めでいいんじゃないか。そんなことを部屋の片隅の一本のねじは教えてくれる。
だから私はゆるゆるやっていこうと思うのだ。今年は緩めの一年でいこうと。自分でも言ってることがよくわからないが、なんかゆるい一年を目指したいと思う。
と、年頭に改める必要もなく、このブログにおいては、かれこれ5ヶ月ぶりのゆるい更新になってしまったわけだが...。

次回予告:
2006年版『犬神家の一族』ではことごとく外した汚名をすすぐ好機到来! 映画『二十世紀少年』のキャスティングを大胆予想! 果たしてケンヂは、そしてオッチョは、ユキジは誰が演じるのか! そしてその更新は記者発表に間に合うのかオレ!?

by wtaiken | 2008-01-18 03:27

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