新たなる旅立ち
2007年 07月 15日
それはまだ私がCM制作会社に勤めていた頃のことで、本は会社の上司であったワガツマさんから貸されていたものだ。曰く「会田くんの好みに合うから、これは読んだ方がいい」ということなのだが、確かにその装画から醸される幻想味や、本のタイトルなどさも私の好むところであったものの、実のところただの1ページすらも私は読んではいなかった。返すに返せず、つまり行き場を失いデスクの抽出に放置されていたのが、赤江瀑の『野ざらし百鬼行』という本だった。
夜毎諸先輩らの酒席に同席を強要され、飲めない酒をチビリチビリとごまかし飲んでは愚痴と説教にまみれクタクタになって、横浜の実家に帰るのは早くて夜中の1時過ぎ、寝ること以外に自分の時間など持てるはずもなかったし、行きは行きで1時間半ばかり揺られる東海道線の通勤時を、だったら有効に活かせばいいものを、電車の振動は心地よく眠りを誘発し立ったままついウトウト寝てしまう、こんな毎日の暮らしの一体どこに"読書"という余白の時間が持てるというのか。もし仮にゆったり過ごせる時間が持てたとしても、おそらく私は迷わずまず真っ先に自分の読みたい本を手に取ったろう。
今より遙かに自己の世界観にどっぷり浸かっていた私にとって、人から薦められる本ほど厄介な代物はなく、だからといって「貸されても読まんよ」などと突っ返すほど頑なに自己主張するわけにもいかないから、そこは社交的に「あ、面白そうっすね」などと本を預かり、そのまま抽出へ直行し置き去りにされ、詰まるところそろそろ借りっ放しにも限度がある頃合いを見計らい、さも読了の態で感想も告げず、私はワガツマさんにその本を返してしまったのだった。
こうして人の好意を無下にしてしまった贖罪からか、会社を辞してもなお私の胸のうちにはデスク抽出の三段目があって、そこには赤江瀑の『野ざらし百鬼行』がいつまでも残されていた。
このところ私の読書量はグンと減っていて、主な要因は小説の中で繰り広げられる架空の物語へ没頭することがしごく厄介になっていたからで、だからたまに手にする本はノン・フィクションだったりすることがしばらく続き、とはいえそこは生来の本好きときているから書店へは2日と空けず通っていたそんな今年の始めだったか、平積みされている新刊文庫の山の中に、赤江瀑の名前を見かけたのだった。目にしてみると、そういえばしばらくぶりな気がして、なにか旧友にでもバッタリ出くわしたような懐かしさを伴い、ついぞ私は手にとってしまったのが光文社文庫の赤江瀑短編傑作選の1冊で、ワガツマさんから薦められてからかれこれ20年、取り急ぎ読みたい本もないこのタイミングに出会ったのもなにかのえにしに思え、一冊くらい読んでみることにした。
赤江瀑の短編小説は、どれもが傑作、秀作とは言い難いものの、ほどよい癖ある文体にすっかりはまってしまい、次から次へと読み進み、あれよあれよと光文社文庫短編傑作選の3冊を読み終えて、さてそうなると、どうせ一度手にしたならもっと読んでみたくなった。件のワガツマさんが薦めてくれた『野ざらし百鬼行』が、そのいづれの選集にも含まれていなかったことも、さらに先を求める拍車となった。
調べると、赤江瀑の文庫本は上記3冊と、昨年末に出版された学研M文庫『赤江瀑名作選』の4冊以外のほとんどが、もはや一般の書店では入手しづらい状況にあることを知った。いづれも絶版か品切れという憂き目にあっている。ハードカバーの単行本でなら、もしかしたら文庫本よりは容易に手にすることができるかもしれなかったが、仕事に出がけの移動中に読むことを考慮すると、是非とも手軽な文庫がいい。私は久しぶりに古本漁りをしなければならなくなった。
石川淳、福永武彦、内田百間、山田風太郎...一時期私は暇さえあれば休日を、それら作家の絶版文庫を求め、古本街を飽かず逍遙してばかりいた。伊勢丹が毎年2回ほど大々的に行う古書展に欠かさず赴いては、興味ある本を多数扱う本屋があると、カタログから所在地を調べ店を訪れる。神保町や高田馬場はもとより、赤羽、江古田、中野ブロードウェイなどを転々とした。
思い返せば大学の頃古本屋でバイトしたのがきっかけとなって、私には絶版文庫蒐集癖が芽生えてしまい、その癖歴の中でも買い集めるのに苦労をしたのが、山田風太郎の忍法帖を中心とした角川文庫版全43冊で、それを買い揃えることにあしかけ何年かかったか、さすがに最後の一冊を古本屋で見つけた時は、なにか一大事業を成し遂げた達成感に満たされたものだ。
あれから早10年。すっかり蒐集癖も落ち着いたところにこの赤江瀑だ。
そこで私は試しに、古書店巡りのその前に、ネットオークションで検索をかめてみた。
"あかえばく"と打ち込むとほどなく、でるわでるわ、絶版文庫がズラリと並び、瞬く間に欲しい本のおおよそが今すぐ目の前に買える状況にあるのだった。
隔世の感とはこのことで、こうしてネットで簡単に欲しいものが手に入る便利さに改めて驚愕と喜びを覚えるのだったが、反面、なにか大事な感情というものが置き去りにされ欠落しているように思えてならなかった。たかだか10年ほど前のことを、さも若き日々を思い返す年寄りのように、足を棒にして古本を探し歩いた日々を私は懐かしく思う。あの一面の書棚に並ぶたくさんの文庫の中から、ただの一冊の本を探し当てる快楽は、もはやパソコンの前にはすでになかったのだから。
と、ちょっぴり今の世の中へ批判めいてみたところで、一旦進んでしまった便利さを差し置いてまでアナログに戻るつもりなどさらさらなく、オークションでどっさり買い集めた赤江瀑の古本を、私はちまちまと仕事の行き帰りの通勤時に読んでいるわけなのだが、さてそれは先日のこと、講談社文庫『アンダルシア幻花祭』の中の一編『音楽の岬』に、以下のごとき文章にぶつかり、吊革につかまり読み呆けていた私を大いに驚かせたのであった。
赤江瀑は、こう描写する。
「すこしはなれてはいたが、その男を見たとき、おや、と大介は思った。
見るともなしに見た眼だったから、一度はずしかけた視線を、あらためて大介はその男の上へもどした。」
どうだろうか、これはズバリ二度見のことじゃねーか、おい。
そう、これは明らかに二度見の描写なのだ。なんとまあ、赤江瀑が二度見を昭和54年の時こう文章にしたためていたのであり、そして私はそれを発見してしまったのだ。
私が自称「二度見の権威」であるいきさつはここに繰り返さないが、少しばかりかいつまむと、喜劇的動作と思われがちな二度見が、実はさまざまな映画の中で、名優たちによってごく自然に演じられている事実に気づき、爾来、私は映画や映像に残されている二度見を趣味で集めているものなのである。それは20世紀の傑作『ゴッドファーザー』に見られ、サスペンスの巨匠ヒッチコックの『めまい』にもあり、ごく最近の報告では、『007/ムーンレイカー』ではハトの二度見が見られるのだそうだ。かように映画における事例は枚挙に暇がないほどであるが、小説の中にも「描写する」ことで二度見が存在しようとは迂闊であった。
こうなると気になって仕方ない。夏目漱石の、森鴎外の、太宰治の、谷崎潤一郎の、その他大勢の文豪たちの数々の名著の中に、誰からもすくい上げられることなく二度見の描写が眠っているかもしれないのだから。第一人者として私は、これらを見つけださないわけにはいかないだろう。
なんとしたことか、四十の坂を越してから、よもやの一から読書のやり直しだ。
まず『こころ』だ。夏目漱石の『こころ』をまた読まなければなるまい。次は太宰だ。『人間失格』もまた読まなければならないし、狐狸庵先生も、つかこうへいも、『銀の匙』も『竜馬がゆく』も、なんなら銀色夏生の詩も読まなければならないだろう。そういえば芥川龍之介の『蜘蛛の糸』で、天から延びる蜘蛛の糸にぶら下がりながらカンダタは、二度見をしていたかもしれないし。
いやー、大変である。ワイフワークだよ。
今はあまり考えたくはないが、こうなるとマンガにだって二度見もあるんだろう。過去だか未来だかの誰かが、飛び立つ火の鳥に二度見する。描写することに貪欲だった手塚治虫がよもや描かなかったわけがなかったろうと今は思えてならない。どころか、兜甲児も、島村ジョーも、墓場の鬼太郎も、つる姫も、花村紅緒も、太賀誠も、誰もがきっと一度や二度の二度見くらい...!
ああ、一体どれだけ私は二度見探しに、限りある人生を費やさなければならないのか。二度見に魅入られた男、これから私をそう呼んでもらって結構だ。
こうして私の新たな旅がはじまった。それはきっとおそろしく長く、あても果てしもない旅路に違いあるまい。
by wtaiken | 2007-07-15 23:01