「の・ようなもの」と「の・ようなもの のようなもの」の感想文のようなもの   

今週は、市川崑映画祭を開催中の角川シネマ新宿で、正編から数えること34年ぶりの続編「の・ようなもの のようなもの」公開記念としてリバイバルされ、一週間限定だったから今日が最終日だったはず、の「の・ようなもの」を観てきました。

森田芳光なしにはありえないはずの「の・ようなもの」の続編でも、いまだに若々しくおられる尾藤イサオの志ん米 (しんこめ) 師匠、「冷たい熱帯魚」以降恐ろしいおっさんにしか見えないでんでんの志ん水 (しんすい)、そして伊藤克信の志ん魚 (しんとと) ももちろん再出演するとあっては、同窓会に当時好きだった女子に会いにいくような少しばかりワクワクした気分で観ずにはいられなかった「の・ようなもの のようなもの」は、監督はもちろんのこと、脚本も変わればすべてが別作品になるということを当然のことながら痛感させられたし、「の・ようなもの」の奇跡的に成立させている才人・森田監督の手腕に感服せずにはいられなくなるという、正編の偉大さを改めて実感させてくれる皮肉な映画だったと思う。
「の・ようなもの」大ファンとしては、その続編が観られるだけでいいと絶賛したかったけど、すべてが中途半端で、たとえば出演者にしても、そりゃまあ諸事情はあるんだろうけど、志ん魚をめぐる肝腎の二人、ソーブ嬢エリザベスの秋吉久美子と恋人由美役の麻生えりかの不在、ある意味シャレで再出演してもいいだろう関根勤や小堺一機、そしてエド・はるみなんかも手弁当・ノーギャラで駆けつけてほしかったし。
一方で、俳優業をすっかり引退していた志ん菜 (しんさい) 役の大野貴保が出番は少しながらも出演してくれたのはうれしかった。けど、出るなら志ん魚と絡ませてくれなきゃ!だし、 松ケンはよかったけど、これもまたキャラクターが描かれ不足でもったいない。...といった具合。
映像における笑いほど難しいものはないと、これは映像を創っているものの実感だが、正編では成功している笑いのリズムも全体的になってない、というか天性の才不足。

そんな消化不良の続編ならば、そーなりゃ久しぶりに正調「の・ようなもの」を観たくなるのが当たり前、といったわけで、「の・ようなもの のようなもの」を観たその日の夜に早速自宅でDVDをかけてみたのだけれど、かなりのねぼけた画質にうんざりし、おおそういえばちょうど今リバイバル上映中だぞと膝を打って、こんな機会にこそ映画館で観るべきとバチリ!テレビのスイッチを切り、揚々新宿へ出向いたわけで。

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作品の出来はいうまでもなく最高の青春映画だ。ストーリーらしきものは特になく、二つ目の落語家志ん魚の、羊水に浸っているようなまどろみの中の数日を描いただけのこの映画の良さをわからない人は、ちょっと残念だね、としかいいようがない。そりゃまあオフビートな笑いに、古さ、あるいは空虚な80年代を感じるかもしれないけど、これは遺作となった2012年の「俺達急行 A列車で行こう」まで首尾一貫した森田調とも言うべきスタイルなので、そこがダメな人はもう永遠に森田芳光には縁のない人として決別してもらう他ないだろう。
映像もDVDなんかと比べ物にならないくらいに鮮明。キレイな、たとえばオープニングタイトルバックのアイマスクをつけた秋吉久美子の登場シーンなんか、目が覚めるくらいなビューティ・ショット。
森田監督の編集の思い切りの良さは、すべてが数フレーム単位で成功している。たとえばこのリズムが少しでもズレていたら、普通の別な作品、もしくはまるでつまらない映画になったろうくらい、ここが森田芳光だからこそのマジックだったと思う。

「の・ようなもの」というと、上述した "オフビートな笑い" 、すなわち芯を意図して外したような抜けた笑いが語られがちだが、名シーン・名セリフも数多くあって、たとえばライムスター宇多丸も絶賛する「面白い人がたくさんいるね」「え? どこにですか?」「ほら、あの辺」とエリザベスの指差す先には東京の遠景...だとか、終電なきあとの堀切から浅草経由で独りごちつつ徒歩で帰宅する志ん魚の青春のやるせなさ...だとか、志ん米昇進祝いのビア・ホールから一人、二人、三人...と退場していく祭りのあとの寂しさ漂うエンディングに、静かに流れる尾藤イサオ「シー・ユー・アゲイン 雰囲気」のセンチメンタリズム...だとか。この曲の作詞タリモとは森田芳光のペンネームだが、なにか登場人物ひとりひとりへ監督からの手向けの言葉のようで、早世してしまった今となっては一段とこのエンディングは心に響くものがあった。

キレイな映像で、しかもはじめて映画館の大きめスクリーンで観る「の・ようなもの」。もとから尾藤イサオの、実に落語家らしい演技は最高に好きだったけど、今回は秋吉久美子の、「その役が発しているんだろう言葉」にちゃんと聴こえる、"ナチュラル" というのとはまた違う、やっぱり演技がうまかったんだなーということに気づかされました。なにも演技していないように見える演技、これこそが役者が目指す到達点だろうと思うんだけど、だとするとこの映画での秋吉久美子、ある意味凄いです。

映画監督はその処女作を観ればすべてがわかる、などと言われる。スピルバーグの「激突!」には以降多くの作品にみられるサスペンスの演出がすでに冴え渡っていることがわかるし、黒澤明の「姿三四郎」はアクションの演出が監督一作目とは思えないくらいに迫力があり見事だった。
森田芳光もこの処女作を観れば、監督のすべてが凝縮されていることがわかる。そして長編5作目「家族ゲーム」にして早くも頂点に達し、そこが監督のてっぺんだと思っていたら更なる高み「それから」へと昇りつめ、以降は「どうしてこんな...」の駄作を連発したり、たまに「(ハル)」のような小品ながらも傑作を小出しにしながら、最後には原点回帰のような "ほぼ「の・ようなもの」" の「俺達急行...」で早々に幕を閉じてしまった監督の、遅ればせながらも追悼した今週でした。

今回、DVDの自宅視聴ではなく、ましてやエアチェックのビデオテープ3倍モードでももちろんなく、やはり映画は映画館で観るべきなんだと再実感。今年は先の「犬神家...」といい、今度の「の・ようなもの」といい、映画青年時代アゲイン!てな感じです。

by wtaiken | 2016-01-30 23:51

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