2013年 夏の映画鑑賞録 ハガネ篇 ※ネタバレ注意   

8月は、企画や企画書、台本や画コンテなど提出物がほぼ連日あって、気の休まる日がほとんどなかった。土日に打ち合わせなどの外出仕事がない週も、明け月曜に提出物があるとなると家にいてぼんやり過ごしたところで一向休んだ気にならない。
そんなア・ハード・デイズ・ナイトな8月であろうとも、時あたかもサマー "ブロックバスター" ムービー商戦真っ直中にあっては、外せない何本かのロードショー作品だけはなんとしても映画館の大スクリーンで早いうちに観ておかねば。邦高洋低と言われて久しい我が国の映画事情を鑑みると、「まあそのうち時間に余裕がある時に」だなんて悠長に構えていた日にゃ、いつの間にかロードショー公開が終了していたりするものだから、のんびり繁忙期が過ぎるのを待ってなどいられないのだ。
よって苦心惨憺どうにか時間をやりくりして、劇場に駆けつけること4回。そのうち1本はロードショーではなくリバイバル、イングマール・ベルイマンの「処女の泉」はいうまでもなく「傑作。」という一言で片が付くので、観た順番からすると、前回感想を述べた7月鑑賞の「風立ちぬ」のあとは、8月17日に観た「パシフィック・リム」を評すべきところ、”鋼の感想は熱いうちに打て!”ということで、公開日の8月30日にユナイテッドシネマ豊島園にてIMAX2Dで鑑賞した「マン・オブ・スティール」を今日は取り上げようと思う。

公開初日は平日の金曜日。初回9時30分からの上映目指して向かう途上の池袋駅は通勤ラッシュの只中、職場へと向かう大人たちの大激流に立ち向かう姿はあたかも大アマゾン川を逆流するポロロッカのごとし。我ながら堂々たるもので、いささかの背徳感がここに伴わなかったのには歴としたわけがあって、というのもこの映画鑑賞の時間を空けるがために、みなが熟睡している夜を徹して仕事を片付けているので、寝たのは朝方たったの一時間きり。よくぞ起きれたりと感心してみたり、そうまでして公開日に映画に行くものかねえと呆れてみたり…。

夏休みもさすがに8月30日となると、宿題の帳尻合わせに余念のない子供らは映画館どころかとしまえんのプールにすら向かう人もまばら。子供が大好きなはずのヒーロー映画とはいえどもすっかり大人仕様にモデルチェンジした今度のスーパーマンには家族連れも子供も皆無で、集うはいずれも映画通を自認していそうな、つまりは私とほぼ同類といった "ちょっと面倒くさそうな" 人種ばかりであったろうか。

はじまりはダークナイトトリロジーでおなじみ、ワーナーブラザーズ、DCコミック、レジェンダリー・ピクチャーズ、シンコピー・フィルムズのそれぞれが鉄板仕様となったロゴ4連発でスタートする(トリロジーでも4つ並ぶのは「ライジング」のみだけど)。不思議なことに、かなり期待していた映画であるはずなのに、この冒頭でいまひとつワクワク感が伴わないのは、全米公開から2ヵ月も経ち、ある程度この作品に対する評価が定まってきてしまっているからだ。
基本私はあまり世の中の評判や評価といったものを鵜呑みにしないことにしているが、ついつい目にしてしてまったそういったものを一切白紙にして観ることはできない。

私のワクワクを妨げた世評、いわくー
「クリストファー・ノーランによるダークナイトトリロジー的ドラマ性が影を潜めてしまっている...云々」というもの。
さらにこれはある一定の人にはネガティブではないはずの「基本バトルメインの映画であって、そのバトルシーンは半端なく凄い...云々」というこの2つだ。
これまでの数々の映画の謳い文句で「凄い映像」ほどあてにならないものはなく、畢竟ほかに褒め上げるいいところがないから絞り出した最後の砦コピーみたいなもんだと私は思っている。

事前にリークされ目についてしまった評価はおおむねこの2点に収斂されているといって過言ではないだろう。よってこの2つについて語ることがこの作品全体についての評価にもつながるはずだ。
というわけで、スーパーマンリブートの成功を託された男、「マン・オブ・スティール」の原案・製作総指揮クリストファー・ノーランが、あのダークナイトトリロジーで発揮したその作家性およびドラマチックな展開は果たしてどうだったのか、まずはそこから検証してみようと思う。

公開前にリリースされた3本のトレイラーから伺えたのは、クラーク少年の苦悩する姿と、そして成長したクラークがスーパーマンとして上空へと飛び立つ爽快感の見事な飛躍と対比であり、この映画に期待を寄せる多くのものたちは、そのミッシングリンクをうめるべき壮大なドラマ、すなわち "いかにしてスーパーマンになったのか" が語られることを望んだはずだし、もちろん私もそうであった。しかるに公開直前になって少し食傷気味にダメ押しでリリースされた4本目のトレイラーでは、クラークの人間ドラマはいずくへ、突如まるで違う映画のごとくバトルに次ぐバトル大作の様相を呈してい、まあそれはそれとして描かれるはずのビフォー・スーパーマンの基盤さえしっかりしていれば後半は大いにバトればいいさ、くらいの心持ちで、懸念どころかますます期待値は上がるばかりだった。

さて、あまりワクワク感の起こらない4つのロゴ後、映画は崩壊寸前のクリプトン星シークエンスからはじまる。
カル=エル、のちのクラーク・ケント誕生と惑星の危機、そしてゾッド将軍のクーデターがものの15分程度といった時間内に一気呵成に語られる。
ここでのカル=エルの実父ラッセル・クロウ演じるジョー=エルが貫禄で全体のトーンを引き締めている反面、期待していたゾッド将軍役のマイケル・シャノンが得意の切れキャラを発揮できぬまま迫力を欠き、ヴィランとして不安を残す駈けだしだ。
映画はかように凝縮感満載にはじまり、あれよあれよという間にクリプトン星が崩壊を向かえてしまい、すんでのところで両親二人の希望をこめ放たれる赤子カル=エルを乗せた脱出ポッドが遥か宇宙の一惑星地球をとらえたところ、さらなる急展開をしめすのだった。

暗転後、舞台は地球になるわけだが、そこには脱出ポッドが地球に落下するところも、焼けたトウモロコシ畑(だったっけ?)も、そして脱出ポッドの赤子とケント夫妻との出会いも一切なく、現れるのは髭もじゃ胸毛もじゃの青年へと成長した地球人クラーク・ケントの姿。生まれたての赤チャンから無駄毛ボーボー姿への思いもかけない飛躍に私は冒頭から軽いめまいを覚えてしまったのだった。

だったら予告篇に描かれたクラークの少年時代はどこへ行ってしまったのか。私もしくは多くのノーランファンが期待した、クラーク少年の人並み外れた力を持て余し苦悩する姿は一体どこへ。
それらは物語の随所に断片として散りばめられ、回想される程度にとどまる。さらに成長した青年クラークの人間社会に馴染めず抱える疎外感すらも、いくつかのエピソードの積み重ねで散文的にしか描かれない。回想の断片と現在の断章の交差。全体像のわからない点描画の一部を見ているようで、クラークの心情、感情の流れが掴みきれないままに映画はテンポよくドンドン先へ進んでいってしまう印象だ。それが総意とはもちろん言わないが、私はいきなり置いていかれてしまった感覚だった。

世評どおりだった。ノーランイズムというべきドラマ性の扱いは、かなりぞんざいになってしまっているのだ。
ただし断片という扱いではあっても、育ての親ジョナサンを演じるケヴィン・コスナーと、幼少期と成長後のクラークとの心のつながりを示す短いエモーショナルなシークエンスはどれもこれもすばらしく、特に赤いマントを背負うクラーク少年を見つめる父親の姿は泣けたな。
やっぱりじっくりと観てみたかったと思ってしまうこの物足りなさはこの映画の致命傷ともいえるが、幼少期のエピソードがしっかり物語の最後までを串刺しにしてはいる点は辛うじて評価に値する。

とはいえ、「バットマン・ビギンズ」での、リスクを承知でバットマンを登場させるまでにたっぷりと1時間をかけたクリストファー・ノーラン監督を私は両手放しで評価するが、これを退屈だとか冗長だと感じる人もあるように、ヒーローの苦悩など断片で回想するくらいが妥当とする人もいることだろう。
しかしこの人間クラークのドラマ性を薄くしたことによって、ザック・スナイダー監督はこのあととんでもない失敗を招いてしまうのだ。
それは物語の盛り上がりも感情の高まりのない序盤も序盤、クラークは自分探しの旅の帰着として、突如、あまりにもあっけないカタチでスーパーマンのスーツとマント姿を披露してしまうのだ。そこにはなんの決意も感じられない、目的もハッキリしない、まさに青天の霹靂のごとくその時は突然やってきてしまう。
ファンにしてみれば「スーパーマン・リターズ」から待つこと7年ぶりに大スクリーンで新生スーパーマンが久しぶりにおがめるところなのだ。「いよっ、待ってました!」のかけ声ひとつくらいかけたくなるのが人情じゃないか。そのタイミングも逸されしまい、そこに至るカタルシスもなく、見えキリのポーズすらも一切与えなかったという、このザック・スナイダーの演出は、ただのこの一点のみで大失策を責められていいと私は思う。

歴史のある、悪く言えば古色蒼然たるヒーローをいまに甦らせるためには、確かに新たなアプローチがあってしかるべきだと思うし、古い殻や余計なしがらみを破らないことにはなにも生まれないだろうことも理解できる。しかし継承すべきよき伝統もあるはずだと思うのだ。
個人的には今度のスーパーマンが青いパンツを履こうが履くまいがどっちでもいいことで、そんなことよりも、電話ボックスから飛び出さなくても回転扉から颯爽と登場しなくてもいいから、スーパーマンがはじめて映画の中で姿を見せるその場面こそ、新しい視点で、以降のスタンダードとなるくらいの、ザック独自のヒーロー然とした演出を模索すべきであったとつくづく思う。だってそこに凝らずに、どこに凝るというのだよ。

というわけで、この一点のみで私のこの映画に対する評価は定まったようなものだけど、つづく世評の2つ目についてはどうか。一応検証したいが、なにせ長くなったのでつづきは次回に。

by wtaiken | 2013-09-11 04:15

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