カテゴリ:シリーズ・寺菓子を食す( 4 )   

シリーズ・寺菓子を食す 番外「アメによるアイダ式血液型性格判断」篇   

覚悟はしていたものの、前回フルーツゼリーでの”一個食べたらもう一生いらなさ加減”は衝撃的で、2回目にして企画存続が危ぶまれていた矢先のことであった。矢先って、もうかれこれ2ヶ月以上も経っちゃいましたが。
仕事前に、ふらりと立ち寄った六本木のコンビニで目についたのが復刻菓子の特設コーナーで、そこに置かれていたとある菓子との実に30年ぶりくらいの再会に、「もう寺で出されていようが出されていまいが懐かしけりゃいいんじゃないか」と企画のしばりを一気に緩めてまでも、番外篇としてどうにも取り上げたくなったのが、今日のアメなのである。

さて、アメ、といえば思い出されるのが、私がまだ会社員だった頃の先輩プロデューサー高橋さんのことで、なにが印象的かって、この高橋さんは大のアメ好き、それも口に含むや否やなんのためらいもなく平然とアメをかじり尽くしてしまうからなのだった。
アメを一気呵成に消費してしまう。しかも気がつけば、次なるアメをガリガリやっているのだから性急というものだ。アメをなめるということを知らない。江戸っ子かお前は。
まさかの展開に当然なめられるものと高をくくっている、かじられた当のアメも大慌てだ。「か、かじりますか」だ。
なめるはアメではないのか。光るはおやじのハゲ頭ではないのか。高橋さんにアメの常識など通用しない。と言ってる間に、ホラもう第三第四のアメをガリガリ食べ尽くす。
だから私は密かに高橋さんを「ガリガリくん」と呼んでいたのだった。

で、私はなにが言いたいのかというと、実はもうひとり、近しい仕事仲間にアメ大好き人間がいて、しかも高橋さんと同様ガリガリとすぐに食べてしまうのだったが、この二人がなんと驚くことに、共通して血液型がO型なのだったのだ。←だいぶ読み返したつもりだったけど、こんなミスに気づかないなんて。"なのだったのだ"って...

O型人間が果たして全世界にどれほどいるのか知る由もないが、そのうちのたった二人きりの事例でしかないとしても、ここであえて私は断言したい。
「O型人間は、おおらか。でも、アメはガリガリかじる」のだと。
対する私は、「自由奔放。わがままでマイペース」のB型で、かつアメは最後の最後までしっかりなめるのB型なのだ。

話を戻そう。
そういえば、最近ライオネスコーヒーキャンディーも懐かしいコマソンをリアレンジして久しぶりにCMを流していたが、番外篇でとりあげるのは「サクマのチャオ」である。
懐かしいじゃあないか。店頭でパッケージを見た瞬間、形状、味の記憶がありありと甦ってくるほど記憶に刷り込まれている商品だ。確か透明の水飴の中にチョコレートが入っているやつである。

せっかくだから、ケータイ写真ではなく、サクマのホームページから借用したディスプレイを掲載しよう、こっちの方がキレイだし。
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しっかり復刻版と銘打たれていて、”チャオチャオっとなめチャオ!”の、これまた懐かしいキャッチコピーも復刻、パッケージ裏面に印刷されている。


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赤銀色の小包装が実にレトロだ。包みを開くと、記憶通りのカタチと色。


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この芯の部分に、とろっとしたチョコレートが入っている。
子供としては、このチョコレートの中心部が目当てであり、早くそこへたどり着きたいのだったが、そこはきっちりなめるB型であったから、水飴部位、またの名を”焦らし部位”をしっかりなめていたものだ。

どれひとつ、と、ホント久しぶりに食べてみた。
目的までの焦らし部位の水飴も、なかなかどうして、これが上品な甘みでおいしいのだ。

そうこうしてなめていると、ほどなくじんわりと、水飴の味にほのかなチョコレート味が混入しはじめる。
お、来たな。
するとやにわに、水飴の一部がダムの決壊のように破れ、もう一気にとろとろりとチョコレートが舌のうえにこぼれ出てくるのだ。
その瞬間だ、私はもう矢も盾もたまらず「そうだチョコだ、チョコをよこせ!邪魔だ水飴!」と言わんばかりに一心不乱、もうがむしゃらにガリガリとアメをかじっていたのだった。

あっという間のことだった。アメは口の中に消えてなくなっていた。

...そういえば。私は、B型の母と、O型の父から生まれたB型なのだった。
O型の血の入った私は、だから時にはアメを、ガリガリとかじってしまうのだ。


結論。
チャオ。なかなか美味であった。とはいえ9月に買ったその一袋は、いまだ半分以上残されたまま我が家にある。

by wtaiken | 2008-11-12 15:58 | シリーズ・寺菓子を食す | Comments(6)

シリーズ・寺菓子を食すepisode2「お菓子だったらただ闇雲に甘ければいいのか篇」   

オーブニングナレーション
『かつてお寺には、法要などで振る舞われるお寺独特の地味な菓子があった。寺菓子。私はそれをそう呼びたい。
それらほとんどの名も知らぬ菓子を、40を過ぎた私の口がどう受け止めるのか。
昔、大人たちが好んだお菓子を食べることで、大人の味覚を獲得したい私の食の探訪。
シリーズで紹介する、現存する「寺菓子」の今。』


パーティ仕様のキャンディーに、こんなものがあった。
それはどこにでも売っている類いの、何種類かのフルーツキャンディー詰め合わせの一袋なのだが、その他の競合商品と一線を画しているのが、小包装されたひとつひとつに、あるべきフルーツのイラストも写真も、一切何味かの情報が開示されていない点だ。
さらに「なかなかのアイディアだ」と思ったのは、キャンディーの色と味が一致しないという工夫がなされていることで、黄緑色のキャンディーがオレンジ味だったり、紫色のキャンディーがレモン味だったりと、既成概念としてのフルーツの色と味の組み合わせをシャッフルしているのだ。
何味かの正解は、小包装の裏側の折り返し部分にひっそり書かれている。
ようするにみんなでワイワイガヤガヤ当てっこをしてほしいというコンセプトのキャンディーで、それがたまたま編集室にあったから当然みんなでやってみようということになった。

これが驚いたことに、ぜんぜん当てられない者が続出なのだ。
「お前らはバカか」
味オンチにもほどあるというもので、とんちんかんな回答をするものらに次々冷笑を浴びせているうち私の番がきた。どんな些事だろうと負けることが大の嫌いな私だから、真剣そのものだ。五感をキャンディーひとつに研ぎすました。ま、視、聴、触覚の3つはいらなかったのだが。
これが結構手こずるのだ。そして真剣に悩みながら、人はとって色はかなり大切な判断材料であることがよぉくわかったのだった。オレンジ色はオレンジ味。赤はイチゴ。ピンクは桃。紫はグレープ、といったように。この常識、思い込みによって、人の感覚はゆるくなってしまっているのだ。
「常識など覆せ!」
キャンディーひとつで、とんでもない命題を与えられたものだが、微妙な味に戸惑いつつも、キャンディーが舌の上でほぼ無くなりかけ、編集室のみんなも忘れた頃になってようやく「オレンジ!」と叫んで「え、なにが」と言われてしまった。

こうして色と味の情報が入り乱れると脳が混乱を来すものだ。

ところがだ、オレンジ色したオレンジ味のはずなのに、赤い色したイチゴ味のはずなのに、どれもこれも味が似たり寄ったりの、ただ甘かったとだけ記憶されている寺菓子があった。

なんだか展開を読まれたようでしゃくだが、前回コメントでmiura2go!さんご指摘の通り、ズバリ!このフルーツゼリーは寺菓子である。
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正式名称は、「ミックスゼリー」。
どうしたって派手にはなれない宿命にあり、せんべい系の茶だの、らくがん系の白だの、海苔やごまの黒といった地味な色合いに混じって、唯一色彩のある寺菓子であったが、甘いものが大好きな子供とて2、3個も食べれば嫌気がさして「ただただ甘いだけの菓子などいるか!」とばかりに盆に残されがちだったのがこれだ。

パイン、オレンジ、メロン、ぶどう、いちごの全部で5種類。
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袋の表書きに「いちごゼリーのみいちご果汁を使用し、その他のゼリーは無果汁です」とある。
残りは香料による疑似フルーツ味というわけで、一袋に全12個入り。うち、いちごは1個のみ。オレンジが4個、メロンが3個、パイン、ぶどうがそれぞれ2個づつというラインナップ。もちろん袋によってアソートはまちまちなんだろうが、どうも果汁入りのいちごは1個っきりという、せこい規律はあるように思われる。
ちなみにぶどう味が紫ではなく、果肉色にしているところに余計なこだわりが垣間見える。
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さて実食に移ろうと思うが、せっかくだから、12個すべてをもみくちゃにし、そこから目をつぶったままひとつだけ取り上げそのまま口に放り込み、果たして何味なのかを当ててみようかと思う。
ビニールをはぐと、おお、そうだそうだった、この感触はゼリーを包むオブラート! こ、これは懐かしいぞ。
で、目をつぶったまま、いただいてみた。
「メロン。」
即答だった。子供の頃の「どれもこれも甘いだけで似た味」という記憶に誤りはあったものの、その甘さは記憶のままだった。まさに人工的に作られた、なんともいえない甘さだ。

この甘さには、すっかり別の味を味わう気も萎えてしまった。
実食時間、わずかに10秒ほどで終了だ。

ズバリ言おう。「ミックスゼリー」。いらない。いりません。1個で十分だ。寝たフリしてる間に出て行ってもらったうえで、ワンマンショーで朝までふざけようかと思うのだ。本気で一生もう買わないと思った、こればっかりは。

それにしても、みそ半月は、口に含んだ時の懐かしさや「いけるかも!」という瞬間があったものだが、ミックスゼリーに関しては、それが微塵もなかったのがちょっと残念だ。
とはいえせっかくだし、唯一の果汁入り、いちごも食べてみた。
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ただただ甘かった。

さてだ、残りの10個をどうしようか。


大人の味覚への道のり。それは果てしなく遠い。
なんだか正直なところ、2回目にして、すでに苦行みたいなことになってきたぞ「寺菓子を食す」!


                   はじめたからには、まだつづけるつもり…

by wtaiken | 2008-08-28 02:39 | シリーズ・寺菓子を食す | Comments(4)

シリーズ・寺菓子を食すepisode1「それはほどよい甘さで、本当に素朴な味なのか篇」   

オーブニングナレーション
『かつてお寺には、法要などで振る舞われるお寺独特の地味な菓子があった。寺菓子。私はそれをそう呼びたい。
それらほとんどの名も知らぬ菓子を、40を過ぎた私の口がどう受け止めるのか。
昔、大人たちが好んだお菓子を食べることで、大人の味覚を獲得したい私の食の探訪。
シリーズで紹介する、現存する「寺菓子」の今。』


子供は甘いものが好きだ。チョコだあめ玉だキャラメルだと、なにかと甘味を欲する子供。
甘いものはより甘く、だから”ほどほど”は通じない。
ほのかな甘み、いるかそんなもの! 贅沢だかなんだか知らないが微糖だとぉ、イサオかお前は! 四の五の言わずにとにかく甘きゃいいんだ、とこうだ。
甘いなら甘いで、甘い物にその他の味の組み合わせなんぞ必要ない。甘いんだかしょっぱいんだか味覚の微妙な、例えばせんべいの表面にザラメがへばりついたやつ、あんなのが嫌いだ。抹茶色した甘いのがせんべいの醤油色を覆い尽くす、あんなのもいらないね。甘いなら甘さを味わいたく、せんべいを食うならしょっぱくなりたい、それが子供の私だった。

総じて寺菓子に対する印象は決していいものではなかったが、近隣のスーパーで思わず「おお、これこれ。寺にあったなぁ」と感慨深げに第一回目用に手にした寺菓子、この「みそ半月」も好きではなかったのだ。せんべいと名乗るくせに甘いやつめ。
そもそも名前を知らなかったから”ははぁーん、これって「みそ半月」って言うんだ”というまずはそんな印象だ。
袋を手にしただけで、すでに口の中がほのかな甘みを思い出している。好きではなかったが、確かに懐かしい。
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18枚入りときた。できれば「お試しセット5枚入り」くらいの小分けにしてお譲りしてほしいところだがそうもいかない。果たして食べきれるのか不安は残るが買うことにした。
「ちょうだいな!」と。

パッケージ裏面には「本品の特長」が記してある。
「手造り味噌を使用し、職人の技術と勘で焼きあげました。」
職人の技術と勘。いいね。
「甘味と堅さを、ほどよく精製し、素朴な味に仕上げました。」
この物言いから感じるのは、「みそ半月」とは、やはり子供仕様ではなさそうだということ。ズバリ「大人のお菓子」なのだった。

続いて補足的にこんなことが書いてあるのだが、
「※本製品は、落花生を使用した工場で製造しております。」

どういうことだ。落花生を使用した工場? 私の読解力が乏しいのか、謂わんとするところがよくわからない情報だ。いるか、これ。そして理解不能。
「こちらの工場は落花生を使用しております」ってこと? 落花生で造られた工場とでもいうのか。グリム童話かお前は。

まあそんな話はさておき、早速封を切ると、袋の中から懐かしい香りがする。確かにそうだ、こんな匂いだった。
茶を煎れ、実に何十年かぶりの実食だ。
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“半月”とはいっても、実際は、丸いカタチのせんべい、つまり”みそ満月”状のものを真ん中から半分に折り重ね、さらに内側に(というか外側にというか)若干の弧を加えているお菓子なのだ。
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いただいてみた。

意外であった。イケるのだ、これが。ほんのりとした甘みがくせになりそうで、これはいい傾向だと思った。第一回目から私の”食のモラトリアム傾向”からの脱却が期待されそうだ。
勢い二枚目に突入だ。いいね。いける、けるける。
三枚目もいっちまうか。うまいねえ。
四枚目。楽勝じゃない、18枚。いや、そりゃ一気にはいかないよ、今後たまに食べてもいいくらのライトユーザーになっちゃおっかなあー、みたいな。
小腹も空いてたし、いくか、五枚目。

突然だった。突如手が止まってしまったのだ。耳の奥でゴングが鳴って、いきなりのみそ半月実食終了のお知らせだったのだ。
はじめこそその甘みを「ほのかな甘み」として好意的に感じていられるのだが、そもそもがみそ味なのだ。3枚4枚と食べ続けていくと次第に口に甘みが残り、「ほどよい」ものが「くどい!」「しつこい!」といったふうに拒絶するカタチとなって表れてしまったのだった。
しかも「小麦粉、砂糖、みそ、鶏卵、ごま」という、いかにもカロリーの高そうな原材料の組み合わせで、私のお腹はいっぱいだ。

ズバリ言おう。「みそ半月」。いらない。いりません。5枚で結構だ。寝たフリしてる間に出ていってほしい。買わない。もう買いません。

みそ半月にしてみたら、あまりに突然の私の豹変に驚いたことだろう。
「さっきまで、おいしいおいしい言ってたくせに」だ。
いきなり5枚もたて続けに食べた私の「みそ半月」との接し方に誤りがあったのかもしれない。反省すべきところは私側にもあったにせよ、5/18程度のことで、ほどよい甘さと素朴さから一転本性を現し、強烈な甘みを口の中に残し、腹にこたえる「みそ半月」の、私はライトユーザーにはとてもなれない。
そして甘みの残された口に、さぞかしカルビーポテトチップスはうまかろうと、そんなことばかり思えてならなかった。


追記 : 寺菓子ではないが、「みそ」+「甘い」食品、ピーナッツ味噌は好きだった。食卓で、ごはんにのせて食べていたというのだから、恐るべし子供時代だ。


                             つづくんだってよ。

by wtaiken | 2008-08-24 13:10 | シリーズ・寺菓子を食す | Comments(2)

寺菓子を食す。   

よもやこの歳になってまでも、カルビーポテトチップスうすしお味を食べていようとは考えてもみなかった。中高生の頃から通算すれば、カルビーの売り上げに多いに貢献している私だが、だいたい40をとうに過ぎた男が日常的に、しかも子供の頃から慣れ親しんだお菓子を、今も食べ続けているという状況に我ながらちょっとビックリだ。
こういった、まったく変遷の見られない嗜好性が、私の場合、サッポロ一番みそラーメンやペヤングソースやきそば、カップヌードルカレーといったインスタント食品にも及んでいるものの、その傾向が顕著なのはやはり菓子類においてであろう。
日頃私はコーヒーを一切飲まない。が、なぜかコーヒービートを見かけるとついつい買ってしまい、カラコロと円筒状のケースからコーヒー豆状のコーヒー味がほのかにするチョコレートを手のひらに一粒出しては食べ、一粒出しては食べ、最後の一粒を食べ終わると「なんだ、もうないのか」ともっと欲しがるフィニッシュに至るまで子供の頃とまったく変わらないというのだから、私の”食のモラトリアム傾向”は深刻だ。
レトロブームに乗っかって結構見かける商品だからか、みつあんずもよく食う。駄菓子屋で小学生の頃から買っているその消費数を積み上げると富士山の5合目あたりまで達するかもしれない。あの歯のとろけそうな甘甘のやつを包装されたビニールから絞るようにしゃぶリ出すのだって、どうなっているんだ今時の40代は。ん。私だけか。
カバヤジューシーは、さすがに買わないよぉ。

大人には、大人の食べるべき菓子があるのではないか。私も大人になれば、大人の食べるべき菓子を食べることになるのだろうと、大人になる前の子供の私は、確かそう思っていたものだ。
大人は雷おこしを食うだろう。お三時にお茶をすすりながら、サクサクお上品にお雷おこしを食べてこその大人というものだ。
そして暑い日には水ようかんだ。なんか竹の小刀のようなものでちまちま小口で水ようかんを食し涼をとってこその大人の夏というものだ。
さらにえび満月だ。これぞ大人の食らう菓子の代表格、ザッツ大人菓子を肴にビールを飲んで見上げる中秋の名月。なんかよくわからないが、それが大人だ。

こうして思いつくままに列挙してみると、なにかと和に転びがちな「大人のお菓子」であるが、プチブル感覚を刺激する欧米風ネーミングとパッケージで、このジャンルに一石を投じたのがブルボンだろう。そう、大人はたいがいブルボンが好きだ。ルマンドを食う。ホワイトロリータを食う。チョコリエールもチーズおかきも食うのだ大人は。

「大人のお菓子」とされる(と私が勝手に分類する)ほとんどは、もちろん例外はあるものの、若いものたちの利用頻度が高いコンビニの商品群にラインナップされることはまれで、平素見かけることはまずないが、試しに大きめのスーパーなどの専用売り場へ行ってみると、そこには「大人のお菓子」をはじめ、郷愁感をビシビシと刺激してくれるお菓子のバラダイスだったりするのだ。

今や懐かしいお菓子として、細々と生きながらえている「大人のお菓子」。しかしそれらは一概にただ「懐かしい」だけではなく、ひとつひとつに付随する記憶によって、さらに細分化されると考えられる。
それが「よく食べた場所」あるいは「よく出された場所」による分類だ。

例えば、金紙と銀紙に一本づつ小包された、指らしきカタチのビスケットに薄いチョコがコーティングされたフィンガーチョコレート。もちろん家でも食べていたのだろうが、懐かしさの帰属先は、むしろ友達の誕生会でだったりしないだろうか。私にとっては、遊びにいった友達んちの、紙の皿に置かれていたお菓子というイメージが非常に強く、すなわちフィンガーチョコレート=「友達の家の誕生会でよく出されていた菓子」という分類になる。比較的新しい商品ではあるが、「ロッテ パイの実」がここに属されるだろう。
またウィスキーボンボンは、「親戚んちでよく出されていた菓子」だ。「味覚糖の純露」もこの分類に私の場合は属されている。

さらにスーパーのお菓子の陳列棚の前で、いちいち懐かしい「大人のお菓子」をどこでよく食べていたかでカテゴライズしていくと、「あ、これも!」「これもじゃんか!」とばかりに、ある巨大な一群を形成する菓子らの存在に気づくのだ。
一際地味で、かつお世辞にもうまいと思えなかった菓子たち。それは、子供にとっては厳粛さが退屈でならなかった法要などで、寺からたびたび振る舞われていた菓子たちの存在だ。
子供に迎合することなく、住職の、大人の目線で選ばれた渋すぎる「お寺でよく見かけた菓子」という分類。あえて"見かけた"としたのは、あまりに地味すぎて子供心に響かず、パスする傾向にあった菓子だからで、略してこれを私は「寺菓子」と総称したい。

この「寺菓子」の代表格といえばなにはさておき落雁で、お供えものとして確固たる地位を築いているからかすぐさま固有名詞として思いつくものの、「寺でよく出たなあ」程度の記憶で名も知らぬ場合がほとんどで、例えばピーナッツを米菓で包み、木魚色した表面には細長い海苔が所々くっついている、最近では小包装された様々なせんべいのコンピレーション「お好み○○」的な中のひとつにエントリーされている豆菓子も、私にとっての「寺菓子」の最たるものなのだが、今だになんというかを知らないのだ。
「あの、ほら、中にピーナッツが入ってるスナックでさ、蝦茶色した木魚みたいな、ほっそい海苔が表面にちょっことついてる、あれ。」としか言いようがないのが実情だ。もし死の間際にこれが食べたくなったりでもしたら、言い終わらないうちに死んでしまうことも考えられる。是非名前を知っておかなければ。

そうなのだ。勝手な呼称「寺菓子」の、ひとつひとつの名前を詳らかにしたておきたい。
そして、お菓子の嗜好性が子供の頃から変わらない私の40を過ぎた味覚が、それら地味でかつおいしいと思えなかった、もしくはパスし続けた寺菓子をどう受け止めるのか。
大人には、大人の食べるべき菓子がある。私も大人になってかれこれ25年だ。そろそろ”食のモラトリアム傾向”を打破すべく、お盆にはもってこいの企画「シリーズ・寺菓子を食す」を次回からスタートしようと思う。

微妙な位置に属するが、えび満月も確か「寺菓子」だった気がするし、いづれは王者落雁も食すことになるだろう。
まずはなにを私が手にするのか...断っておくが「寺菓子」か否かの判断は私の一存による。「ええーっ、それは寺菓子じゃない!」そんな他人の記憶など知ったことではないことを一言加えておく。

by wtaiken | 2008-08-19 03:48 | シリーズ・寺菓子を食す | Comments(5)