はじまりはどこにあるのか   

あたり一面ガラスの破片が散逸し、ものすごいことになっている。なにが割れたというんだ。かけらの切っ先は容赦なく鋭利で、動こうものならチクリと行くぞ、と気合いをのぞかせては完全に私を包囲している。
窓から差す西陽が破片にはねて、あたりを小さくキラキラ輝やさせてはまるで宝石箱の中に閉じこめられているかのような美しい錯覚をさせたりもするが、そこにうっとりしている余裕など私にはなかった。なにせ疲れているのだ。クタクタだ。あー、どうしても腰が下ろしたい。
ええい、ままよ。
後先もなく私はガラスの破片一面の床に、どかっと腰を下ろしてしまう。

案の定だった。破片はチクリとジーパンを貫通し尻に刺って痛かった。
矢も楯もたまらず私はこうして破片だらけの床に腰を落ち着けてしまうのだが、疲れは和らぐどころか一段と体中に広がり、すると今度はどうしたって体を投げ出したい、横になりたいの一念だ。
これには自分でも参った。なにせくどいようだが、あたりはガラスの破片だらけなのだから。
しかしここまでくると知ったことか!の男気で、勢い私はゴロリと横になってしまう。
それっ。あひーーーー。
案の定ものすごく背中が痛かったわけだが、その痛みを跳ね返すようにどうにもこの疲れだけは果てしなく、横になったらなったで次は布団が欲しくなってしまうものだ。布団を掛けたいじゃないか、寝るなら布団だろ。けれどこんなガラスが散らばる床へ布団を下ろそうものなら、細かい破片が毛布に絡みあとあと掃除が厄介なことになってしまう。なんだか取り返しのつかないことになりそうだ。
だったら布団を掛けるに至る前の前段階、つまり横になる前の、腰を下ろす前にこそまずはこの床を掃除することが人としての先決だったのだろうが、とにかく体の疲労困憊は私にそんな真っ当な順序を許してくれない。
それいけ布団だ、布団をかけてしまえ。
うわああああ。
みろ、みてみろ! 布団がなんだかすごいことになってしまったじゃないかあ。

まあいい、この際布団はあとまわしだ。それより今は、私のこの疲れを和らげるべく落ちる睡眠にこそ問題があって、寝返りを打つそのたびに下からは床の破片が、気持ちのいいはずの布団からも絡まった破片が、チクリチクリと刺さるのかと思うと暗澹たる思いのした、そんな初夢を見たのだった。

フロイトの見解によると、夢のそのほとんどが性に結びつくらしく、この場合鋭利なガラスの破片はさながら男性器の象徴ということにおさまってしまう気配だが、床にいくつも男性器が散らばっている状況とは、一体どういうことになってしまっているんだ私の頭の中は。
だからといって、たとえ学術的サンプルとしていくら興味津々の結果が導かれようとも、上述のごとく大概の夢にはさしたるサゲも気の利いたオチもなく、一般的には夢を聞かされた者にとって戸惑いは必至であり、始末が厄介なものはないだろう。
「だからどうした」。
これこそが夢話しを聞かされた多くの者たちの順当な感想だ。

「夢なんだけどね。坂の上に円盤から降りた宇宙人が私に向かい手を振っているのだよ。しかもその宇宙人ときたら鼻水を垂らしていてね、もーおっかしくて」
別に笑えない。だからどうした。

「夢の中でサチコにふられちゃってさ。んで泣きじゃくってたら、蜂が飛んできて刺されちまったよ、ここんとこをよ。いやーさんざんでした」
知るか。だからどうした。

「夢にオバケが出てきてチビっちゃって、起きたらホントに寝しょんべんしてやがんの」
この場合に限り「だからどうした」と突き放すのではなく、「お前はいくつなんだ」と叱ってあげるのが正解である。

と、クドクドいくつも例を示すまでもなく、まさに人を戸惑わせてなんぼの夢話しなのだが、思えばあまたの何々話しをゲストに語らしめる長寿番組のひとつ『ごきげんよう』でさえ、「夢話し。略して夢ばな!!」が未だないのは、司会者が「だからどうした」としか返す言葉の打ちようがないからだ。
それでも夢は見た者にとっての臨場感たるや、それは原体験をも凌駕してしまうインパクトを残すことがしばしばある。「現し世は夢。夜の夢こそまこと」そう言ったのは江戸川乱歩だったが、確かにある時は胸を締めつけるくらい切実に悲しく、ある時は笑いながら起きてしまうほどにおかしく、ある時は皮膚感覚を伴い痛点を刺激するほどに恐怖を感じたりするから、ついつい人に話したくなってしまうのが夢だ。

「こんな夢を見た。」
この一文で堂々語りはじめるのは夏目漱石の『夢十夜』で、さすがに処女作『吾輩は猫である』で確固たる地位を築いた天賦の才だけあって、読後「だからどうした」とは思わせない風格があり、かつ夢を芸術へと昇華させているのだからたいしたものだ。やはり私のような凡夫の夢話しとはわけが違う。
だからといってこれが作者が見たままの夢だとはとても思えないが、夢を題に冠したうえであえて律儀にも「これは夢である!」と冒頭で断りを入れているあたりは、なにがしかのヒントを自身の見た夢に求めたと考えてよく、単なる幻想的な掌編集とはしなかった漱石の作家としての姿勢は大いに研究題材の対象ではあるのだろうが、ここで私が問題視したいのは、実はものの順序についてなのである。

順序は大切だ。たとえばだ。仮にこの『夢十夜』が別の題名をとり、かつ冒頭の一文が一番最後の締めくくりになっていたとしたら、この小説は果たしてどうなるのだろうか。中身に手を加えず、一文のみが前後するだけでだ。
幻想的な10の掌編ストーリーを読みふけった直後のことだ。作者はこんな一文で物語を締めくくってくるのだ。
「と、私は十日間立て続けにこんな夢を見たのだった。」

これはダメだろう。ええー、うっそーん、である。それまでの名文形無しだ。
百年後花になって男に逢いに来る女の話も、背中に負ぶった子供が石地蔵になっている話しも、夢であるならば冒頭に夢という注釈があってこそ成り立つのであって、フィクションの世界を愉しんだ受取手に、最後の最後あえて現実性へ回帰させてしまうこの手のオチなどはいらないのだ。
ものの順序とは大切なことであり、さらにここから学ぶべきは、つまり夢を題材にする場合、幕開けで堂々とそれを宣言することなしには成立しないということであって、そして夢で最後に落とす、いわゆる"夢オチ"は、すべてをダメにしてしまう恐ろしいパワーを秘めているということなのだ。

私の知り合いが、パクチーを"台無しくん"と称している。確かにパクチー嫌いな人にとってはそれが含まれることで、料理を根底から覆しなにもかもを台無しにしてしまう恐るべき食材であることを見事に表現してあまりあるわけだが、小説に限らず、映画、ドラマにと、好き嫌いの問題ではなく、今どき夢オチは、すべてを台無しにしてしまうありえない手法と言っても過言ではないだろう。
『ゴッド・ファーザー』だ。クライマックス、父の死によって図らずも暗黒街のボスに君臨してしまうマイケルを、悲しげに見つめる妻ケイの目の前、二人を分かつ未来を予感させるドアがバタン!と閉まる暗転で見事に映画は終わってくれるのだが、これが全編ウトウト陽だまりで寝ていた妻ケイの夢だったとなどと蛇足したら、果たして映画はどうだったか。言うまでもないだろう。映画は総崩れである。
映画にして約2時間、小説ならば幾日かに渡って、ドラマならば1クール約3ヶ月間、延々つき合わされた結果の全部が夢でした、というオチのつけ方はどう手を変えようともありえず、だからといって短ければそれはアリなのかというと15秒もしくは30秒ばかりの世界であるCMでも禁じ手とされていることからも明かで、おおよそすべてのクリエーターたちはそれをわきまえている。

それでもあえて禁じ手だからこそ使う場合もある。ギャグとして機能させる方法であり、実はそれすらもとても古い手法だが、憚らずいまだやってくれているのが♪割るならハイサワー〜のCMで、「お客さん、終点だよー」も夢オチの一つだ。オチといったところでもともと別段笑えるものではなかったが、ここまで延々と同じネタを続けられると呆れ返るを通り越し、いまや応援したくなっている自分がいるから不思議だ。"ゲロゲーロゲロゲーロ"の球児好児を年に一度、正月のお笑い番組で見かける気分にも似て、絶滅危惧種動物を救え、夢オチを絶やすな、だ。そういえばここんとこ見かけないが、どうしたんだろうか「お客さん、終点だよー」は。

まあ割るならハイサワーの話はどうでもいい。
今やすっかり古びた手法であり、危険極まりない手法ではある夢オチだが、「それもまたよし」とされていた時代が確実にあったからこそ廃れたに相違なく、そう思い始めたきっかけは先日観たバスター・キートンの映画で、それはゴルフをしているキートンが跳ね返った玉に頭を打ち気絶してしまい、そこに通りかかった脱獄囚がキートンのゴルフ服とすり替わることで犯罪者と間違われ警官に追われる騒動を描いた短編のラスト、気絶していたキートンが夢から覚めて終わるという正統派夢オチだったことで、なるほど考えてみれば、チャップリンあたりにも夢オチの短編があった気もし、映画の黎明期サイレント時代こそ夢オチ華やかりし黄金期だったのではと仮説してみたのだった。
それにしてもその時の私は突然の夢オチに虚をつかれしまい、その不意打ちこそが夢オチを使う本意だとすると、まんまとその作為の術中はまり、「おおー! 出た! 夢オチ!」と歓喜してしまっていたのだった。
夢オチ、恐るべし。

それにしても夢オチの発祥者は、一体どこの誰がいつ頃用いた手法なのだろうか。
「すげーオレ(もしくは私)! 最後の最後で全部が夢ってことにしちゃうんだよ、みんなビックリするぞおー!」と感嘆の声をあげた第一号がきっといるのだ。
しかしそれは決して映画の発明された20世紀ではない。そう断言できるのは『不思議の国のアリス』があるからだ。『不思議の国のアリス』は、そう言ってしまうとなんだかもともこもなくなる気がするが、白ウサギに導かれて冒険する地下世界の出来事は、本を読んでいるうち眠ってしまったアリスの見た夢でしたという歴とした夢オチ小説である。1862年発表、19世紀に書かれているのだからそこが起点なのかというと、これもまた「元祖!夢オチ」ではないだろう。長い人類の歴史の中で、夢オチが1862年も放っておかれたわけはない。夢オチの発祥はきっとある、もっともっと遙か昔に...。

今年は夢オチを研究してみようと思う。元祖・発祥に限らず、二度見にならって次は夢オチ蒐集家になろうかとも思う。なんだか思いつきでいろんな一年になっているが、夢オチ、あなたも見かけたら是非とも私にご一報いただきたいものだ。
それにもう一つ気になるのが、「バナナの皮にすべる=笑い」の元祖はどこの誰だということだ。

by wtaiken | 2006-01-25 05:40

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