キング・オブ・判断   

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人は、なにかにつけ逐一判断をしなければならない。
人はただただ判断することのみでその一生を終えてしまうといっても過言でないほど、誰もがみな判断しつづけては生きている。

朝、目覚ましのベルが鳴る。そのまま予定通りに躊躇なくスッパリ起きることがまず判断であり、また支度を切り詰めることでなんとかあと10分寝ていられると瞬時に計算することも判断だ。
こうして判断しなければならない一日ははじまる。

日々の服の選択にも判断は否応なく求められるし、仕事に就けば、判断はいたるところ嵐のように散在する。その判断の善し悪しが、仕事の成否を大きく左右する。
さらに判断は続く。
何時に仕事を切り上げるか、飲んで帰るのか一直線に帰るのか、座れないバスに慌てて乗るのか見送って次のバスでゆっくり座って帰るのか、もうとにかく枚挙にいとまがないほどに、そりゃもう次から次へと判断、判断、判断だ。
そして判断は、そんな日々の細々とした積み重ねだけではない。
人生の岐路における最大の判断は、大富豪か貧乏農場かの選択を迫るのだ。まさに判断によって決まる人生のゲーム。しかしあの人生ゲーム、最後に子供を売ってお金に替えるってのは、いかがなものか。

いや、話は人生ゲームについてではない。
そんな誰もが生きなければならない判断人生の中において、どうも「監督」と呼ばれるものこそがキング・オブ・判断なのではなかろうかと、仕事場で監督と呼ばれる私は思うのだ。

ひとたび監督なるものが現場に入ると、そこは判断待ちの衆が手ぐすねを引いて待っている。
例えば工事現場の監督の判断たるや、それはもうすさまじいものだろう。
「監督! あそこに使う杭はこっちですかい? それともこれですかい?」
「いや、あそこの杭は、これだ!」
「監督! あの穴は何センチ掘りますかい?」
「いや、5mはいっとけ!」
と、いかんせんまったく縁のない現場を引き合いに出したものだから喩えがつたなくなってしまったが、いづれにしても判断にためらいなどあろうものなら、現場は途端に停滞してしまう。交通整理のように、監督は事の真偽、善悪、美醜のすべてをテキパキと判断をしなければならない役割を一身に担っている。

私が監督しているのは主に映像に関してであり、それが撮影だったり編集室だったりするわけだが、現場は容赦なく私に様々な判断を迫る。
「監督! 昼飯はなにがいいすか!」
なにせ判断することが私の仕事だ、昼飯ひとつとっても監督たる私に優柔不断な態度は許されない。
「ホイコーロー定食でいく」
そして息つく暇を与えず、現場はさらにこう続く。
「監督! 買い出しに行って来ます! なにか欲しいもんないすか!」
すかさず監督たる私は、待ってましたとばかりに判断する。
「チョコパイな。そしてフルーティーな飴。ゴマの入ったせんべいも欲しいところだ」
もう、ちぎっては投げ、ちぎっては投げの判断連続技だ。

なにもこうしてただただ現場の食べ物に関してばかり判断しているわけではない。
映像に映るすべてのことを微に入り細をうがっては、いいのか、ダメなのか、の判断をしなければならない。どちらかというとこっちがメインだ。当たり前だ。
その瞬く間に繰り出す判断の正確さこそが、監督としての性能の判断基準ともなってしまうのだ。

「あの監督、実際のところどうなんだい」
「んー、判断がな・・・」
「判断がダメかい」
「ああ、ダメダメ。あの判断はひどいもんだ」
「そりゃあ、いただけないなぁ」
「まったくいただけないよ、ありゃあ」
判断を誤った監督は、きっとこう評されてしまうのだ。

聞くところによると、撮影現場での監督の下した判断があまりにも見事だった場合に限り、クライアントから「よ! 名判断!」のかけ声とともに、スタッフ全員の拍手喝采および胴上げ、花束贈呈などが行われるらしいのだが、私はまだその好機に恵まれない。

そして今、私は監督とは呼ばれないものの、多くの判断を必要とされる新たな現場のただ中にいる。
言うまでもなく、この芝居の演出だ。
親鳥を待つひな鳥のように「早く判断してくれろ」と日々求め続けるスタッフ、キャストの群れ。私はよどみなく判断する。曖昧な態度など皆無に等しい。判断の切れ味たるや、その都度感嘆の声さえあがる。
「今、会田さんがスッパリ判断したぞ!」
「判断! 会田さんの判断が出た!」
「キング・オブ・判断!!(全員で)」

・・・しかしだ。そんな私の判断も、思わず鈍ってしまうことがあるのだ。
建て込み、そしてバラシの現場だ。
実のところ私は、芝居における建て込みやバラシにまったく使いものにならない男なのだ。(と、振り出しに戻る)

by wtaiken | 2005-01-10 03:54 | ああ、監督人生 

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