続報「街でバッタリ」
2005年 06月 22日
「街でバッタリ」は、どうやら街で頻繁に起きているのかもしれないと思った。
というのも、さきのブログ更新後、つまり先週のこと、偶然にも「街でバッタリ」している二人を見かけたのだった。
それは駅構内の
男性はうれしそうに「あれあれあれ」などと言い、女性は一瞬の間のあと、「わー!!」なんて憚らず感嘆の声をあげているのだ。
そのまま二人は、
なんだか少しばかりだが、
「街でバッタリ」はどうやらヤケにうれしいことのようなのだ。
そういえば私の数少ない事例を振り返ってみても、仔象の例に限らず「街でバッタリ」のことごとくが、どうもうれしいことばかりに思えてくる。
だがしかしだ、そんなことは決してないはずなのだ。うれしいばかりの「街でバッタリ」ではないはずだ。
なかにはそれこそ“歓迎すべからざる「街でバッタリ」”もきっとどこかで起こっているはずであって、それは例えば休暇中の警視庁敏腕警部と、その警視庁敏腕警部がギリギリのところで取り逃がした連続放火魔との軽井沢の駅前でバッタリ鉢合わせもあっていいはずなのだ。お互いが声にならない「あ。」を発し、時間が凍りついてしまったかのような「街でバッタリ」があってしかるべきだと思うのだ。
なのに私はそれを目撃したことも、ましてやそんな経験も思い当たらないのはなぜだ。
どうせなら気まずい「街でバッタリ」も、たまにはどうだろうか。
バッタリしてしまったがゆえに仕方なくポツンポツンと会話を交わし、さして笑顔もなく、「じゃ、ま、そーゆーことで」などといった締めくくりをもって、日常へと離れ離れになっていく「街でバッタリ」。
いや待てよ、そういえば私にもあった。
しかしそれはバッタリではなかった。
私は気まずい「街でバッタリ」が起きてしまうその前に、回避した経験がかつてあったのだった。
まずこの図1をご覧いただきたい。
図1に見られるように、私は道路の向こう側に、出会うとバツが悪く、きっとお互い気まずくなってしまうであろうその人を、今まさにすれ違いざまバッタリする直前に発見してしまったのだ。そして私は、ほんの一瞬の逡巡のすえ、見過ごすことに決めたのだった。
そこで図2の経路をもってしてバッタリせぬよう努めたわけであるが、ここで大切なのはおのれの気配を消すことであって、その時の私は「似てるけど会田じゃないよ、ボク」という風を装い、それが不自然な動きとなって目立たぬよう十二分に注意しながら、あまりにも横断歩道から極端にはみ出ないよう間合いをとりつつ人ゴミに紛れてみせ、見事その気まずい「街でバッタリ」回避に成功したのであった。
一方的に避けてしまったちょっとした罪悪感。
と同時に、なにをコソコソしているのだ自分は、とも思ったりした。ただいづれにしても、バッタリしてしまったあとの、お互いのバツの悪さを思えば、回避やむなしというところだろう。
こうしてうれしい「街でバッタリ」は奇声を発しつつ、街のあちこちで目撃をされ、一方気まずい「街でバッタリ」は、人知れずこっそりと回避されているのだろうと思った。
そうしてこうも思った。
私もおそらく誰かにとっては、気まずい「街でバッタリ」の人などと目されては、私のあずかり知らないどこか都会の片隅でバッタリすることを避けられているだろうか、と。
私がそうであったように、微妙なオーバーランをして横断歩道を渡るものがいたら、それは気まずい「街でバッタリ」回避しているのだ、おそらく。
by wtaiken | 2005-06-22 06:40 | ああ、監督人生