本日03角田マジ歌発売!

ここ2週間ばかりは連日連夜コンテばかり描いている。描いては修正描いては修正の毎日だ。なにがシルバーウイークなものか。休みなど一日もなく日々是締め切りだ。馬車馬のように働いているよお。あー、疲れた。
たまの安らぎといえば、リマスター盤のビートルズと、しばらく放っておいたパソコンから突然流れるスクリーンセーバー"ユニクロック"の女の子たちの踊りくらいのものだ。
こうしてほぼ監禁状態で画コンテ描きに追われているわけだが、そのうえ打ち合わせにも行かなければならないから時間のやりくりが大変である。
ここに来て暑さがぶり返してはいるものの、さすがに湿気は夏ほどではないから、ナチュラルパーマの私はたまに結んでいた髪を外出時に下ろしたりする。久しぶりに下ろしてみてビックリした。
長い。ずいぶん長いのだ。しかも久しぶりに口と顎に髭をたくわえているので、なんだお前はひとり70年代か、という感じだ。おサイケだ。暑苦しいロックンローラーだ。ハイキングウォーキングの、あのコーラを一気に飲んでゲップをせずに山手線一周の駅名を言いますあいつくらいに長い。私はメガネをかけているのでオアシズの光浦が髭を生やしたかのようだ。われながらいい喩えようのないところが悔しいが。
うっとうしいとはこのことだ。だったら切れと私は私に言いたいが、言われた私は言った私にこう言うしかないだろう。
「切りに行く時間が、ホントにないんだよ」と。

そんなわけで、ブログ更新にかける時間もこれくらいで。
あとしばらくこの喧噪はつづく。

そういえば、東京03がキングオブコント優勝して、いやあよかったよかった。

# by wtaiken | 2009-09-30 03:34 | Trackback(4) | Comments(4)

勝手に赤ペン先生

シルベスター・スタローン。今更ながらあの暑苦しさったらどうだ。真夏にはなるべく遠慮したい男だが、だからといって秋や冬や春なんかどうですかとすすめられてもホントすいませんけどできれば通年ごめんこうむりたい男NO.1だ。真ん中あたりがスタスタうるさいので、ワンペアで外していっそ「シルベローン」にしたらどうなんだ。
そんなシルベローンの映画に関する記事をなんでまた読む気になったのか、その自分の行動が不可解極まりないとはいえ、うっかり、たまたま目を通してしまった。
それが、なんとも苛立つほどにモタついている記事なのだ。くどいとはこのことだ。シルベローン本人のくどさがこんなところにも影響してしまうのだろうか。
とにかくこれはいくら説明しても仕方ない。かなり長い引用になってしまうが我慢して読んでほしい。
記事は、9月8日づけでYahoo!エンターテイメントニュースに記載されていた

「スタローン自らが『ランボー5』のストーリーをリーク!ランボーが殺人マシーンを退治する!」

という目出しが踊る、以下が全文だ。
ちなみに下線は私、会田による。

「先日、シリーズ4作目『ランボー/最後の戦場』に続く『ランボー』のシリーズ5作目が製作されると正式発表され、一部業界紙でストーリーが報じられたが実際の物語は違ったようだ。

 『ランボー』のシリーズ5作目で再び主演を務め、メガホンも取ることが決まっているシルヴェスター・スタローンが映画サイトAin’t It Cool Newsに対してボイスメールで語ったところによると、先日報じられた「少女を助けるためにランボーが人身売買と麻薬王と戦う」というストーリーは間違いで、シリーズ5作目はこれまでの『ランボー』シリーズとは異なったジャンルに挑戦することになるとのこと。『ランボー』シリーズといえばスタローン演じるベトナム戦争の帰還兵ランボーを主人公にしたアクション映画だが、シリーズ5作目は漫画的なアプローチのSFアクション映画にしようと考えているそうだ。ストーリーは、アメリカの軍事施設で「良心の呵責(かしゃく)なしに本能的に殺人を行う兵士」を生み出す実験が行われていたが、実験が思わぬ方向へ進んでしまったために特殊部隊とともにランボーが実験で生まれた殺人マシーンを狩る展開で、舞台はパシフィック・ノースウエスト(太平洋岸北西部)の森となる。

 また、シリーズ5作目は『ランボーV:ザ・サベージ・ハント(野蛮な狩り)』(原題)というタイトルになることも明らかにされ、9月10日から開催されるトロント国際映画祭で公開されると思われるシリーズ5作目の初期画像も明らかにされた。画像では剣鉈のような大きな武器を左手に持ち、左腕から血を流している荒々しいランボーが中央に立ち、その背後に熊か狼のような鋭い牙を持った獣の恐ろしい目がみつめているという構図で、ホラー映画のような印象だ。

 シリーズ5作目は、ジェイムズ・バイロン・ハギンズのサバイバル・アクション小説「極北のハンター」をおおまかに脚色して製作されるといわれており、スタローンの友人であるアーノルド・シュワルツェネッガーが主演した映画『プレデター』のような映画になることが予想される。シリーズ5作目の撮影は来年春頃から開始される見込みで、SFジャンルに踏み込んだ新しい『ランボー』の公開が楽しみだ。」

なにが楽しみなもんかい、という個人的な見解はひとまずおいて、さらシル"ベ"スター"じゃなくてシル"ヴェ"スターだったのかということもさておき、とにかく下線部にだけ注目していただきたい。
なんだいこれは。もうわかったよう「シリーズ5作目」の話だってことは。まったくまさかの「シリーズ5作目」8連発だ。
これは決して丁寧な描写とは言えない、そして刷り込み効果を狙ったとも思えない、この文章のしどろもどろぶりは、さすがは暑苦しいことにかけては引けを取らないシルベローンだ、記事まで読むものをイライラさせてくれる。読んだのが真夏日でなくてホントよかったよ。
がしかし、この文章のくどさはどうにかしたい。だいぶこのところ涼しくなってきましたからねと、黙って見過ごせるレベルの問題ではないだろう。
私は文章のエキスパードでもパートタイムラバーでもなんでもないし、なにもそんなことにいちいち目くじらをたてずに捨ておけばいいものを、このまま放置してはダメだと思った。書いた本人ではもちろんないが、こんなことではシルベローンのためにならない。あの筋肉バカを思えばこそだ。
そして私はこの記事に勝手に手を入れることにしたのだ。そう、勝手に赤ペン先生なのだ。直すぞ、直してやるこのシルベやろう。

ということで、またまた長いことになるが、上記オリジナル記事と比べて読んで欲しい。隣りに新規ウインドウを立ち上げて並べてみると、修正が一目瞭然のはずだ。
やかましいくらいに繰り返される「シリーズ5作目」という言葉を省くことに注力し、若干文章の入替を行った結果が以下である。ちなみに使われている言葉にはほとんど手を加えていない。

「先日、シリーズ4作目『ランボー/最後の戦場』に続く『ランボー』のシリーズ5作目が製作されると正式発表され、一部業界紙でストーリーが報じられたが実際の物語は違ったようだ。

『ランボー』シリーズといえばスタローン演じるベトナム戦争の帰還兵ランボーを主人公にしたアクション映画だが、シリーズ5作目では、先日報じられた「少女を助けるためにランボーが人身売買と麻薬王と戦う」というストーリーは間違いで、これまでの『ランボー』シリーズとは異なったジャンルに挑戦、漫画的なアプローチのSFアクション映画にしようと考えていると、再び主演を務め、メガホンも取ることが決まっているシルヴェスター・スタローンが映画サイトAin’t It Cool Newsに対してボイスメールで語った。
ストーリーは、アメリカの軍事施設で「良心の呵責(かしゃく)なしに本能的に殺人を行う兵士」を生み出す実験が行われていたが、実験が思わぬ方向へ進んでしまったために特殊部隊とともにランボーが実験で生まれた殺人マシーンを狩る展開で、舞台はパシフィック・ノースウエスト(太平洋岸北西部)の森となる。

 また、『ランボーV:ザ・サベージ・ハント(野蛮な狩り)』(原題)というタイトルになることも決定し、9月10日から開催されるトロント国際映画祭で公開されると思われる初期画像も明らかにされた。画像では剣鉈のような大きな武器を左手に持ち、左腕から血を流している荒々しいランボーが中央に立ち、その背後に熊か狼のような鋭い牙を持った獣の恐ろしい目がみつめているという構図で、ホラー映画のような印象だ。

 シリーズ5作目は、ジェイムズ・バイロン・ハギンズのサバイバル・アクション小説「極北のハンター」をおおまかに脚色して製作されるといわれており、スタローンの友人であるアーノルド・シュワルツェネッガーが主演した映画『プレデター』のような映画になることが予想される。撮影は来年春頃から開始される見込みで、SFジャンルに踏み込んだ新しい『ランボー』の公開が楽しみだ。」

どうだろうか。だいぶスッキリとした印象を受けないだろうか。筋肉質40%ほどカットされたスリムなシルベローンのようではないだろうか。
これはわずか数分間程度の手直しだ。それでくどかった8回の「シリーズ5作目」が、わずか3回に減らせてしまう。この文章量からすると、妥当な数値であろう。

しかしどうもしっくりこない。面倒くさいところだが、我慢してもう一度バージョン2を読んでほしい。この記事の抱える、そもそもの問題に気づくはずだ。
まずこの記事は、ストーリーについて噂の否定から導入する。そして軽く真相に触れすぐさまストーリーの紹介、とここまではよしとするが問題はここからだ。今度は公開されたスチルの印象をはさみ、そして締めくくりでまた内容についての概要と予想がされている。つまり話題の組み立てがとり散らかっている。だからこそ、あまりにも余計な「シリーズ5作目」を謳わなければならなくなったという問題点の根幹が、これで浮き彫りにされてきたのだ。

ならば勝手に「勝手に赤ペン先生」を名乗るからにはここで終わってしまっては片手落ちのそしりを受けかねないだろう。さらに修正してみようと思う。
再び段落を入れ替えるなどして構成を改め、スムーズに流れるように心がけた結果が以下だ。くどいようだが、隣りにオリジナルを、その隣りにバージョン2を並べ、比べつつ読んでいただきたい。

「先日、シリーズ4作目『ランボー/最後の戦場』に続く『ランボー』のシリーズ5作目が製作されると正式発表され、一部業界紙でストーリーが報じられたが実際の物語は違ったようだ。

『ランボー』シリーズといえばスタローン演じるベトナム戦争の帰還兵ランボーを主人公にしたアクション映画だが、シリーズ5作目では、先日報じられた「少女を助けるためにランボーが人身売買と麻薬王と戦う」というストーリーは間違いで、これまでの『ランボー』シリーズとは異なったジャンルに挑戦、漫画的なアプローチのSFアクション映画にしようと考えていると、再び主演を務め、メガホンも取ることが決まっているシルヴェスター・スタローンが映画サイトAin’t It Cool Newsに対してボイスメールで語った。

タイトルは『ランボーV:ザ・サベージ・ハント(野蛮な狩り)』(原題)になることも明らかにされ、ジェイムズ・バイロン・ハギンズのサバイバル・アクション小説「極北のハンター」をおおまかに脚色して製作されるといわれており、スタローンの友人であるアーノルド・シュワルツェネッガーが主演した映画『プレデター』のような映画になることが予想される。
ストーリーは、アメリカの軍事施設で「良心の呵責(かしゃく)なしに本能的に殺人を行う兵士」を生み出す実験が行われていたが、実験が思わぬ方向へ進んでしまったために特殊部隊とともにランボーが実験で生まれた殺人マシーンを狩る展開で、舞台はパシフィック・ノースウエスト(太平洋岸北西部)の森となる。

 さらに9月10日から開催されるトロント国際映画祭で公開されると思われる初期画像も明らかにされ、その画像では剣鉈のような大きな武器を左手に持ち、左腕から血を流している荒々しいランボーが中央に立ち、その背後に熊か狼のような鋭い牙を持った獣の恐ろしい目がみつめているという構図で、ホラー映画のような印象だ。

撮影は来年春頃から開始される見込みで、SFジャンルに踏み込んだ新しい『ランボー』の公開が楽しみだ。」

どうか。オリジナルで8回も繰り返された「シリーズ5作目」が、構成に手を入れ話題を整理することによって、ついに2つにまで減らすことに成功した。
こうなると人間は欲がでてくるものだが、よし「シリーズ5作目」を1つしてしまえ、いやいっそ一言も触れない、そしたらスタローンの名前もいらない、考えてみればこの話題自体がいらない、という結論に達してしまうから、やはりこの辺りが順当におさまりのいいところなのだろう。
「シリーズ5作目」が8回連呼されるオリジナルでもあきたらず、もっとだもっと連呼しろと感じていた「シリーズ5作目」フェチにとっては本当に余計な作業であったろうが。

なにかひと仕事終えたような、とっても清々しい心持ちだ。タバコを吸っちゃおうかな。いやしかし本来の私の仕事は、休日などおかまいなく目の前に山積みだ。清々しさに浸っている場合ではなかった。
それでも私は宣言したい。これからも仕事がどれほど停滞しようとも、目に余るひどい文章は、勝手に赤ペン先生が勝手に直しちゃうから。

しかし改めて読み返してみると、むしろくどいのは、こんなことに執着しているお前だろって、人に突っ込まれる前にそう思った。

# by wtaiken | 2009-09-14 02:22 | Trackback | Comments(2)

女王様降臨

仕事に行こうと自宅のマンションから出たところ、ちょうど目の前を通りかかったおばさんにどこか見覚えがあった。買い物袋をぶら下げてプラリと自宅へと帰る態。まるで鶏ガラ思わせるやせぎす、唇は冷たくキリリとして横に長い。一見すると影はすこぶる薄く、存在さえかき消えてしまいそうなのが逆に強く印象づいていて、この顔は間違いなく近所のどこかで見かけた顔だ。それがなかなか思い出せない。
自分の生活圏内で見ている、という確信だけはあったから、たとえばコンビニやドラッグストア、スーパー、TSUTAYAだったりの比較的来店頻度が高く”よく見かける店員”が存在する店などをあれこれ思い出してみたが、どこにもそのおばさんの顔は浮かんでこなかった。本人の「あ、見たことある!」という強い印象と相反して、どうもその出自がひどく曖昧だ。
知っているはずの人がどこの誰だったかを思い出せないというのは、背中の届きそうで届かないところのTシャツに散髪仕立ての短い髪の毛がひっかかってチクチクしているように、こうもイライラするものなのか。
あ、そういえば近所のパン屋にもよく行くな、そこにはいなかったか。いくつかのパン屋を思い浮かべてみるのだが、どこもかしこも思い出されるのはメイドのようなフワリとしたエプロンとかわいげのあるコックさん帽を被った、まったく別のおばさん店員の顔ばかりだ。ええい、邪魔な。
それにしてもこれはこの地区特有のことなのか、パン屋の店員におばさんが多いのはなぜだ。
そしてパン屋といえば、パンひとつひとつを懇切丁寧に包みこむ過剰包装具合も常日頃から気になる話だ。資源の無駄だ。全国のパン屋が一斉にあの過剰包装を取りやめたら、きっとCO2排出量削減に大きく貢献するはずだと思いながらも、「あ、袋いいっす」とカレーパンやチョコなどがコーティングされたパンをわしづかみにしてカバンに放り込むのはいやだし、だいいちカバンの中でカレーパンの油やコーティングされたチョコが文庫本やサイフや手帳にくっついて始末におえないうえ、じゃあ早速はじめますか、と会議室で広げた仕事の資料にべっとりチョコをつけたディレクターなどに誰が仕事をくれるもんか。推進します過剰包装。むしろもっとだ、もっと被せろ。
あらぬ方向へ思いが外れたところで仕事先についてしまった。

仕事中も、あの薄幸ふうのおばさんが気になって仕方なかった、かというとそんなことはもちろんない。さすがは大人だ。仕事中には仕事に集中するものだな。
所詮はちらと見かけた見覚えあるおばさんのことなど日々の雑事の中でも特に些事だから、すっかり忘れてしまう。忘れてテレビを観てバカ笑いなどする。ごはんを食べて満腹になる。ひとっ風呂浴びる。寝る。夢を見る。起きる。歯を磨く。時間になる。打ち合わせにでかける。マンションをでる。あ。そこでまた思い出すのだ。そういえばあのおばさん誰だ誰だ誰なんだ。そしてやっぱり思い出せない。ああくやしい。そんなもやもやした繰り返しが何日か続いた。

昨日のことだった。いつものようにマンションを出たところでまたぞろ思い出してしまった。おばさんだ。ああ、おばさんだ。あんた一体どこの誰なんだ。また記憶をたどれないまま一日忘れ、明日でがけに思い出すんだろうなとあきらめつつ駅までの短い道のりを自転車でこいでいるその時だ。まったく記憶の回線というのは、なんの脈絡も前触れもきっかけもなく突如つながるもので、はたと私は思い出したのだった。急ブレーキだ。サドルが股間に痛いだ。
近所も近所、おばさんを見かけたのは、家の中だったのだ。

よもやのちょっとした怖い話、すわっ夏の終わりの怪談かと警戒するなかれ、なんのことはない、よくありがちなテレビで観たというオチで、「じゃあなんかあれか、タレントさんを見かけて、ついつい知り合いのように思っちゃったあれか」というとそうではなくて、テレビに出ていた一般人、それがよりによって12chでたまにやっている大食い選手権の王者、つまり大食い女王のおばさんなのだった。大食い女王が、うちの前を歩いていたのだ。かいつまむと、女王が歩いていた。なんということだ。
仕事が終わってうちに戻り、慌ててパソコンで「大食い女王」と検索したら速時名前が「菅原初代」と判明した。女王菅原初代さんが歩いていたのだ。確認の意味で、「大食い」「菅原」で画像検索すると、出るわ出るわ私がマンション前で見かけたおばさんの顔がドドドッと表示された。

ホッとした。こんなに清々しい気持ちになったのも久しぶりのことだ。
しかし喜びのあまりそれは霞んでしまっていたが、謎なのは、なぜ私はただの一度しか観たことのない、しかもかなり以前の「大食い選手権」という番組に出ていた一般人の顔をこうまで憶えていたのか、という問題だ。
顔認識機能搭載。ちょっとしたデジカメだ。デジ・カメ男だ。これはまったく無駄な記憶力だ。そしてうちの近所には女王が住んでいる。

# by wtaiken | 2009-09-12 03:54 | Trackback(1) | Comments(0)

ぼんやりする

コンビニでタバコを2箱買った。
「640円です」
サイフには一万円札しかないと思って一万円札を出したあと、ちょうどいい塩梅に小銭があることに気づいて、出した一万円札を引き戻し、まずは500円玉を1枚レジ台におき、そして10円玉を出した、まだ会計の途中段階でだ。
「510円で、よろしいですか?」
と、すっとぼけたことを店員は言い出した。

よろしかないだろう。どんな道理だろうと640円の品物が510円でよろしくなるわけがない。よしんば640円のものが510円で買えてしまうとなったら、どれだけすばらしい世界なんだ、それは。
安売りでもまけてくれたわけでもないのに、たとえば1860円の買い物がなぜか1630円で買えちゃいました。なんだそれは。バンザイだ。そんな世界バンザイ。そんな世界であれ。しかし条理の通ったこの世の中でそんなことはむしろ不条理で不気味だし、だったらそもそも価格ってなに?という話になってしまう。

ならば、この若き女子店員の一存で、640円が510円でよろしくなったのか。
まさか大正時代の貧乏書生と彼に密かに思いを寄せる煙草屋の純情乙女とのやりとりでもあるまいし、その線も却下だ。
話は単純だ。なんかボーッとしてしまった。なんだか勢いで、小銭を出す途中でポンッと「510円で、よろしいですか」と言ってしまった。ただそれだけのことなのだろう。
引き続き10円玉3枚と100円玉1枚を何食わぬ顔でサイフから出している途中、的外れな自分の発言に気づいたらしく、小さく「あ…。」とまだ若い女子店員は漏らしていたが、まったくぼんやりにもほどがあるぞ、と私は言いたい。私が近所で評判の変わり者だったら大変なことだった。
「510円で、よろしいですか」
「うむ。510円でよろしいだろう」
こうして"ぼんやり"のおかげで差額の130円は、危うく若い女子店員の身銭で埋め合わさなければならなかったところだ。

"ぼんやり"の巻き起こす奇禍。
そういえばこれもまたコンビニでの、だいぶ前の話だ。

その日仕事が深夜にまで及び、終電になった。働き詰めで食事のタイミングを逸してい、自宅までの道すがら、ただもう手早く空腹感を満たすことだけを目的にコンビニへ寄って、組み合わせもなにも考えることなく目について欲望の赴くままに触手の動いたものだけを買って自宅に戻った。

仕事の資料がどっさり入ってずっしり重いバッグを肩から外しどっかり腰を下ろすとようやく人心地がついて、じゃあサクッと食事でも済ますかと、コンビニの袋からいまさっき買ったばかりの商品を出してみて驚いた。
マルちゃん赤いきつねに、どうしたものかカップのとうふと油揚げのみそ汁という組み合わせもさることながら、さらにいなり寿司が袋から現れたのだ。

どんだけ油揚げが食べたいのだ。もう自分にビックリだ。
そんなに油揚げ大好きっこなのか。3時のおやつは油揚げに砂糖をまぶすのか。狐か。憑いているのか。語尾にコン!とつくのか。頭に柏の葉っぱを乗せ、それをお金に見せかけて人を騙したりするのか。とんびかも。かっさらうのかも。いや老化現象か。おじいちゃんがまた油揚げ買ってきたよなのか。
改めて自分の特異な嗜好に驚いて、コンビニ袋からひろげられた品々を前にしばし呆然としてしまった。
"ぼんやり"思考を停止してただ闇雲に買ったことがいけなかったのか。にしても欲望の赴くままに任せた結果がよもやの油揚げづくし。油揚げパーティーのはじまりだ。それでもやっぱりつゆものに汁ものはどうかと思い、ひとまずカップみそ汁だけは後日に譲って、私は赤いきつねといなり寿司をその日食べたのだった。

"ぼんやり"はおそろしい。640円を510円でよろしくしてしまい、かと思えば、油揚げばかりを買ってしまう"ぼんやり"。
しかし人が人である限り、一時的に脳を休息させるこの"ぼんやり"はなくならないだろう。恒久的にぼんやりしてしまうこともあるかもしれないこの先々を考えるとゾッとするが、そうなったらそうなったで家の冷蔵庫に油揚げが消費しきれないくらいにあふれ返るだけのことだし、そしてコンビニの若い女子店員は、いつも計算を間違って安くしてくれると近所の子供たちに絶大な支持を受ける駄菓子屋のおばあちゃんになっているのだろう。

# by wtaiken | 2009-09-10 05:11 | Trackback | Comments(2)

ひさびさに無題にしてみた

昨日打ち合わせの最中、ブログについて話が及んだ。
いまのプロジェクトは二人ディレクター体勢なのだが、日頃温厚を絵に描いたようなもう一人のディレクターのMさんが突如吐き捨てるように「なんかね、キライなんすよね、ブログなんてやってるやつ!ちまちま日常の写メなんか撮っちゃてちまちまアップして。有名人でもないくせに誰が読んでるんだって話ですよね!」と言う。わははは。その通りだよ。まったく。私は同調した。
「いるんだよ、どっかのレストランでさ、自分のアバター的なぬいぐるみかなんか持ち込んでさ、料理と一緒に写真とか撮ってやんの」ドワッハッハッハ、と一同笑。ひとしきり笑いのおさまりを待って「でもオレもやってんだけど。ブログ」。
一瞬Mさんの顔が形容できないように歪むのがわかったが、その固まった空気の中さらに追い打ちをかけるように、日頃厳格を絵に描いたようなクリエイティヴディレクターのI氏が「私もやってますよ、ブログ」。
一億総ブロガーとはいわないが、石を適当に投げればブロガーに当るような時代だ、下手なことは言うもんじゃないな。慌てるような早口で「いやいやいや、いいんすよ、会田さんとかIさんはこういうクリエイティヴなことしてるじゃないすか。ボクが言ってんのは、ごく普通の一般人のやつらのことっすよ」とその場を取り繕うようにMさんは言うが、いやあ私も一般人だよ、れっきとした。

まったく誰が読んでいるんだって話のこのブログであるが、近頃4コマ漫画がめっきりないな、とお嘆きの貴兄にちょっと言い訳です、今日は。
このブログ、はじめたのがかれこれ5年も前のことで、実はこれまで開設していることに一切の金額は発生していなかったんだけど、こうしてフリーで使用するには画像容量が決まっていて、つまりこれまで私はその容量範囲内でちまちま更新していたわけ。それがいよいよその画像容量いっぱいいっぱいになってきてしまい、だったらすぐにでも有料化すりゃあいい話なんだけど、なんだかこれがうまくいかないんだな、カード決済がさ。
うまくいかないカード決済の原因を追及して、早くに容量など気にしないブロガーになりたいところなんだが、みっちり手続きをしているいとまがとれず、だったらひとまずこうしてありかちな日常でも書き連ねてお茶でも濁しとくか、というわけなのです。あ、いや、書いといてなんだけど、決してお茶を濁してるつもりはないのだが。
だいぶ前に描いたものやら写真やらを削除して容量の空きを増やす、なんてことも考えてみたんだけど、せっかくの積み重ねを消してしまうことに躊躇してしまって、そのへんはちょっと私のせこいとこなんだけど、ま、いづれカード決済問題が解決したら漫画も再開しますので、いましばらく。
不思議なもんで、じゃあ4コマ漫画描くか!っていうスイッチが入んないと、まったくネタって思いつかんのな。だからストック0です。

と、話は脈絡もなくガラリ変わるが、小栗旬主演映画「TAJOMARU」にひさびさ出演しているショーケンのインタビュー記事を読んでいたら、最後の「これからのご予定は?」的な質問にこう答えていて、ちょっとビックリ。
「やっぱ『傷だらけの天使』はやらなくちゃいけないみたいです。かなり市川森一さんがやる気になってるんでね」だってさ。暗礁に乗り上げ立ち消えになっていたと思ったら、やっぱやるんだー「傷だらけの天使」。
そういえば先日「チューボーですよ」にショーケンが出ていて、マチャアキとの会話が穏やかにかつ普通に成り立っていることにまず驚いたし、そのうえ声を裏返すことなく、しかも過剰な身振りもせずに「エメラルドの伝説」をにこやかに唄っている姿には、「大人になったな、ショーケン」と思わずにはいられなかった。これまでテレビに出るとなると、いつなにが起こるかわからない、張りつめた緊張感の漂いが、スタジオからテレビを観ているこっちにまでヒシヒシと伝わってきたものだったが、さすがにショーケンも懲りたってことなんだろうか。順応、迎合なんて一生できない人だと思ってたけど。
一時よりはスリムになっててちょっと安心だが、木暮修を演じるには、あのきっちりした髪型、あれはなんとかしてもらわないとな。
いまのショーケンは二代目で、私ら世代が熱中した初代ショーケンは「影武者」で終わった、とかなんとかこれまでも散々書いてきたけど、やっぱ応援するしてるよ、なんだかんだ言ってもね。

あー、とりとめもないことばかり今日も書いてしまった。
「お茶と同情」のつづきは、もうこうなったらみんなが忘れた頃の3年後に書くことにしよう。

# by wtaiken | 2009-09-08 06:04 | ああ、監督人生 | Trackback(2) | Comments(2)

誰がいつはじめたのか

先日某テレビ番組で「温暖化どころか地球は定期的な氷河期に入っているとも言われ、じゃあ一体どっちなんだ」的な討論がされていたが、なるほどそう言われてみると確かに数年前の猛暑だの酷暑だのとこの季節が嫌いな私にとっては辛かった夏の日々を思うと今年は比較的しのぎやすかった気もするし、月がわりに歩調を合わせるようにパタリと蝉が鳴かなくなって、朝夕などタオルケット一枚じゃ涼しいくらいで、このまま残暑を見舞ったり見舞われたりすることなくすっかり秋へ移行してしまう勢いが感じられ、こりゃ「地球は冷えはじめている」説もまんざらじゃないと思ったりする。現にこうしてブログを更新している私の部屋はエアコンもつけていなければ扇風機も回っていないし、私は長袖だ。冷たい飲み物よりむしろ暖かい飲み物が恋しくなって、おっとそういえば「お茶と同情」のつづきを書いていなかったなと思い出したのだけど、今日もじっくり取りかかるほどの時間がもてない。
早くも冬から来年の春に向けての仕事が動き始めて、連日企画に追われているからで、いまもその仕事をしていたのだったが、ちょっと手を休めて息抜きに、というかかなり逃避行動的にパソコンに向かっている。
こうして企画をたてなければならない前日や前々日あたりには、決まっていやな夢を見る。切羽詰まった状況が似ているからか、舞台の出番が刻一刻と迫っているのにセリフがまるで入っていない、慌てて台本を探すがどこにもないという悪夢だ。もう滝のような汗をかいて目覚める。だから何本か企画立案の案件を抱えると、もう寝た気がしないというか、ほぼ寝不足状態で毎日を生きていかなければならない。自然と電車では空席を獲物を狙う野獣のように探すし、座ると一駅もかからず寝付いてしまうことになる。

ポキポキする音が耳元でして、せっかくの束の間の睡眠を邪魔されてしまった。なにかと思ったら、隣りに座る男が指を鳴らしているのだ。片方の拳をもう片方の手のひらで包み、指の付け根を鳴らす、あれだ。私はケンカをほとんどしないし、またケンカをしているものがそれをしている光景を目撃したこともないが、よく挑みかかる側が挑みかかる前にする行為であると認識されている、あれだ。日活あたりの、若き高橋英樹がやってそうな、あれだ。それをだ、電車に座りやってやがるのだその男は。前の席に座る男のネクタイの柄が気に入らないから、挑みかかるのかもしれない。しかし男はただ一心に指をポキポキと幾度か鳴らし、手を入れ替えるともう片方の指を丹念に鳴らすと、何事もなかったようにボーッとしているのだ。
「で。」と私は言いそうになった。そのいまのポキポキはなにに向けられたポキポキだったのか。
しかしここで考えなければならないのが、この指をポキポキ鳴らす行為のすべてが、やる気を見せつけるためだけに行われるわけではない、ということだ。ただ暇つぶしにやる。なんとなくやってしまう。挑む気も挑むべき対象もないまま、ちょっと手が空いたから鳴らしてしまう。なんなら付け根どころか第一関節第二関節もペキペキ鳴らしてしまうし、ついでに首を激しくひねって首の骨もボギーっって鳴らす。なんなんだよ、この骨を鳴らすやつってのは。うるせーなー、まったく。私はこの行為の正式名称を知らないが、おそらく指をポキポキ鳴らす人の多くは、この「なんとなく」派に属しているのではないかと私は憶測する。なにかをやってやろうじゃないか、とか、このやろう痛い目にあわしてやろうか、といった場合より、むしろこの「なんとなくやってます」ことになってしまっている指をポキポキ鳴らすという行為。この使われようの変遷もさることながら、やっぱり私には、この行為の成り立ちが気になって仕方なかった。

誰がいつはじめたのか、ということだ。なんなんだよ、この指をポキポキ鳴らすってのは。森羅万象すべてのものには必ず起源というか発祥元があるはずで、誰かがきっと「ケンカの前に脅す、もしくはやっちゃうぞこのやろう的な見せしめ」としてこれを行ったはずなのだ。どう考えても、世界同時多発的に、ある日ケンカの前にはこれをすることになった、そんなわけがないだろう。一体誰が。そしていつ? 古代ローマなのか、中世ヨーロッパなのか、それは。そして改めて考えるに、これは記号として世界的に通用することなのかも気になってくる。北アイルランドでは、ケンカ前相手を脅す行為として、あんぐり口を開けてアゴの骨を外すが通例となっております、なのかもしれないし。
私は以前このブログで「バナナの皮ですべるというギャグ」は一体どのように生まれたかが知りたいと書いたことがあるが、このポキポキの起源もそうだし、さらにケンカに限って言うと、「胸ぐらを掴む」というのもなんだかよくわからない行為だ。「やんのかよ」「お、やんのか」といってお互いがお互いの胸ぐらを掴む。にらみ合う二人。なんなのだ、これは。まったくケンカひとつとっても、こうなのだから、世の中わからないことだらけだ。ただひとつわかったのは、指をポキポキ鳴らすことがケンカや気合いのほどを示すことから逸脱し、暇つぶしにしてみることになってはいても、「ちょっと手空きなので部長の胸ぐらを掴んでみました」はない、ということだ。

ひとときのまどろみを妨害されて、またひとつわからないことが増えてしまった。それにしても公共の場ではちょっした行為が拡張されて伝わって、本人はそれを迷惑と思っていない素振りだが、私には気になって仕方がないことが実に多い。ガムのくちゃくちゃ噛む音も耳についてイライラするし、貧乏ゆすりもそうだ。
貧乏ゆすり。なぜ小刻みに片足をゆすることが"貧乏"と名付けられてしまったのか。これもまた謎だ。

# by wtaiken | 2009-09-04 05:14 | Trackback(4) | Comments(0)

「ダークナイト」IMAX版公開!

もし昨年の公開時に「ダークナイト」IMAX版が上映されていたなら日本のどこへだって行くつもりの私だったけど、それは叶わなかった。
IMAXシアターが人里を遠く離れた未踏の地にあったからでも、どこへだっていくつもりの旅費がいっかな工面できなかったからでもない。
昨年、日本にはIMAXデジタルシアターがなかったからである。ないものには行けないよお。
正確に言えば、これまでにいくつかのIMAXシアターはあるにはあった。が、IMAXにかけるべき映像コンテンツが不足して、結果経営に行き詰まって閉館という目に(多くの施設は)あっていたのだった。
開館してみたけんだけど上映する作品があんまねーなぁー、じゃあやめますか、ってのも随分と間の抜けた話だが、東京だと新宿高島屋が2001年に、品川プリンスホテルが2007年に撤退している。
2007年! あと一年頑張ればいいものを。

ここで知らない人にもよくわかる「IMAXってなに?」講座。
通常劇映画は、フィルムの幅が35㎜のものを使う。(ミリを省いて、業界的には「さんごー」と言ってます。)
フィルムにはほかに8㎜、16㎜なんてのもある。
このフィルムの大きさの差がなんなのかというと、情報量の差。デジタルでいうなら画素数。「それが味」という一面はあるものの、さすがに劇中の狙いでなければ巨大スクリーンに8㎜映像をかけたら、画が荒くて寝ぼけて、とても見られたものじゃない。

で、IMAX。これが35フィルムの、なんと4倍の大きさ。「にばい、にばい」by高見山どころか、唐突に4倍ですぜ、ダンナ。というわけで、つまりえらくキレイな映像であるだろうことがこれでおわかりいただけると思う。そしてそれは専用のスクリーン映されるから、迫力もまた倍増されるわけだ。
映像が美しく迫力満点のIMAXに、 だったら何故劇映画はすべからくそれにならないのか。
その理由は簡単で、ざっくりいうと、撮影時に予算がかかりすぎることとインフラの問題。
なんたって4倍のフィルムを扱うカメラは馬鹿にでかくて撮影規模がふくらむうえに機動力はないしで、大変このうえない。
「そりゃいいのはわかるけどさー、いいんじゃね、35で」と、映画製作者たちが二の足を踏めばかける映画も一向増えず、そうなりゃ施設の拡充もままならない。つまりソフトとインフラ双方の足並みが揃わなければ、結局2008年までのニッポンの現状となるわけなのです。

ところが、ここにきてにわかにIMAXシアターに注目が集まってきた。
ハリウッドが「ハリウッドでつくられる映画は近い将来3D映画が主流となる」と断言したからで、
まあハリウッドさんと言う人が断言したわけではないから妙な文章になってしまったが、どうもそれは本当のことらしい。
しかし「3D映画」と聞くと、私たち世代にはあまり良い印象はない。それは子供の頃に"飛び出す!"というふれこみの怪獣映画を赤と緑のメガネをかけて観た記憶があり、当時「なんだ、たいして飛び出して来ないじゃないか」とひどくガッカリしてしまったからで、どうもそれは誰しもが思ったらしく、その後途絶えてまったく流行らなかった、つまり廃れてしまった過去の手法という認識があるからだ。その3Dがだ、いまさら主流?と言われてもなあ。

この「?」をひとまずおいて話を進めると、スクリーンから飛び出したり、目の前から飛び込んでいったりする3Dの臨場感をより楽しむには、迫力の大スクリーンがもっとも適しているだろう。流行るんだったら、じゃあインフラを整えましょうと、そうしてようやく立ち上がったのが109シネマズ。
今年6月に大阪の蓑面と埼玉の菖蒲に川崎という、なんだか微妙な立地に3館オープンしたわけで、そのキックオフ記念試写でようやく「ダークナイト」がなぜか菖蒲でのみ一回だけ行われ、「日本のどこへだっていくつもり」だった私は千載一遇のチャンスどばかりその試写会券をネットオークションでゲットし、いそいそと埼玉の畑のど真ん中にポツンと巨大ショッピングモールに併設されたIMAXシアターへ延々2時間かけ行ってきたことを、私はてっきりこのブログに記しているかと思ってたけど、書いてなかったんだね。
観てきたんだよ、「ダークナイト」IMAX 版を。

そこで上映前に数分間のエキジビジョン3D映像を観たんけど、これが思わず「どへー!」って後ろに反り返るくらい、まあいろんなものが飛び出してくるから驚いた。アニメのなんとかエキスプレスってタイトルの映画で機関車がギュイーンて目の前ギリギリで止まったりしたけど、そんな創りものよりむしろ自然を映したドキュメンタリーの方が凄かった。だってよー、そこによー、ホント目の前に魚が泳いでるんだぜー。わかっていてもついつい手が出ちゃうの。触れるんじゃないかと思ってよ。
ちなみにかけるメガネは改良されて、目がチカチカするような赤と緑のレンズではなく、特殊な黒いレンズのサングラス。ちょっと重いんだけどね。

どうやら来年あたりは3D映画元年となる気配で、先陣をきってジェームズ・キャメロン監督12年ぶりの全編3Dの新作「アバター」は12月に公開。その後も続々。まだアニメが多いんだろうけど、それら新作もさることながら、過去作品の3D化も進むようで、プロジェクトとしては「スターウォーズ」旧3部作だったり「タイタニック」だったり、いろいろあるみたい。

と、今日は話がとり散らかってますが、ここからがようやく本題。
おそらくもう二度と行くこともない菖蒲へオークション購入してまでわざわざ出向くなどという手間ひまかけなくても待てば海路の日和ありで、熱烈ファンのリクエストにより「ダークナイト」IMAX版が3館揃って公開決定!なのだ!
東京にはまだないけど、埼玉行くより川崎は断然近いし、駅からすぐだし、もしDVDでしか観てなくて「ああ、映画館で観るべきだった」とちょっと後悔している人は、もうこの機会に万障お繰り合わせの上ご覧いただきたいものだ。興味のある人は、こちらへ。

なんでまたIMAXにこだわったのか、褒め言葉として「映画バカ」としか言いようのないクリストファー・ノーラン監督の「映画は劇場で観なさい」パワーが、そこかしこから感じられる作品なので、ホント映画館で観ることをオススメします。
IMAXを使ったのは6シーンのみ。35のところと若干画角が違って劇中スクリーンの縦幅が延びたり縮んだりしてるんだけど、そんなのは気になりませんので安心を。
IMAXシーンの中で特筆すべきは、ハービー・デントの護送中、マジックアワーから群青色に染まりつつある空と燃え盛る消防車のほむら、この対比が最高に美しい。IMAXならでは。
それからIMAX版経験者のアドバイスをひとつ。席は、字幕を無視してなるべく前列の方がいいんじゃないかな。と。私は一番後ろで観たけど、臨場感をより得るには前の席にすべきだったと後悔したので。

大の黒澤映画ファンだった熊井啓監督は、「七人の侍」(か「生きる」だったか)の冒頭からのカット割りを延々事細かに諳んじたそうで、「好きな映画にはこれくらいの思い入れがなけりゃダメだ」と奥田瑛二に言ったそうだ。
「ダークナイト」は、劇場でもDVDでも相当数立て続けに観たけど、冒頭から流暢にカット割りを諳んじるのは...そりゃ無理な相談だ。まだまだだな。
すっかり「もうしばらくいいや」感がいっぱいだったけど、かなり前列の方で映像だけ注視するもう一回もありかな、と思い出した次第。
よおし、また行くぞ、と。

# by wtaiken | 2009-08-29 06:38 | 蝙蝠男の孤高の戦いは続くのか | Trackback(2) | Comments(0)

赤塚不二夫展

個展に行く。絵画だったり、漫画家だったりの。やっぱり原画を目の当たりにすると圧倒されることが多い。
たとえば北斎展で見た「富嶽三十六景」の感想は「いやあ、ずいぶんと青いなー」だった。
浮世絵なので原画とは言わないが、刷られた当時輸入されたばかりの「ベロ藍」なる染料をふんだんに使っているため全体的に紺色が強調されていることは知ってはいても、印刷物ではついぞ感じることのなかった圧倒されるばかりの青の際立ちは、現物を目の当たりにしなければ知ることもなかっただろう。めちゃめちゃに混んでいたので叶わなかったが、できることなら立ち止まってじーっと見ていたかった。
漫画家だと手塚治虫展。改めて曲線のエロティックさと女性キャラクターの美しさを原画で再認識して、いわゆる「手塚の大人漫画」なるものを買い漁って読んだものだ。って、ついこないだのことだけど。
永井豪は、私の、というか多くの同世代にとってヰタ・セクスアリスの萌芽たる存在であるから、漫画家の中では思い入れもひとしおだったが、それゆえか逆に原画での驚きは少なかった。

まだ存命中だった赤塚不二夫展が上野で開催されたのは、確か90年代の後半だったろうか。ぷらりという感じで、とりあえず行っとくか、くらいに入ってみたのだけれど、これが驚くほど繊細でかつ線の美しさに感激。シンプルで簡略化された線描であるから、漫画のどのコマをみても実にグラフィカルでかっこいいのだ。
当日、ちょうど館内では赤塚不二夫本人が来てい、サイン会を開催していた。さほどの列ではなかったけれどそこそこ並んでいる人たちの隙間から覗いてみたけれど、いかにも体調の悪そうな顔つきで不機嫌そうにしていたことを憶えている。
私は、どれほど憧れる人であろうとサインをもらう行為の美徳をいっかな感じ得ないので、原画に感動しようともサインはもらわなかったが、こうして鬼籍に入られてしまった今となっては赤塚不二夫のはあってもいいかもと思ったりする。なにせ漫画家のサインには、ともするとキャラクターのひとつでも描き添えてくれるなんて特典がありそうで、こりゃまんだらけあたりに売り飛ばしたら高値で売れまっせー、うっひっひ。という邪な考えはおいといて、せっかくのチェンスだったし、もらっておいてもよかったよな、ありゃ。

それから10年も経ったろうか、"追悼"と銘打って、いま銀座松屋の催事場で「赤塚不二夫展」が開催されている。
仕事帰りに、わざわざ遠回りして初日に行くってんだから、私もなかなかの熱烈ファンぶりだ。
今回の個展は、有名どころの作品、「おそ松くん」や「ひみつのアッコちゃん」「もーれつア太郎」「天才バカボン」がメインになっていて、それはそれで見応えのあるものだったし、画のうまさはやっぱり今見ても群を抜いていると思った。
また物販コーナーが充実していて、欲望のままにうっかりあれこれ手にしてしまうと、レジで膨大な金額を請求されてしまう目にあうこと請け合い。私はしぼりにしぼって、カタログと缶バッヂセットとTシャツ2枚購入で7.770円という、ちょっと縁起のいい買い物てな感じ。んにゃ、カタログは別会計だったから、もうちょっと買い物しちゃったんだった。こりゃ買い過ぎだ。

そして今回の目玉のひとつでもあるのが、各界の著名人たちによるイヤミ"シェーッ!"ポーズ集で、これがまた圧巻。
歯の出具合がイヤミそのもののさんまや、ゆかりのタモリ、存命の大物漫画たちやそのキャラクター、YMO細野、坂本、高橋の3氏、スチャダラ、RIPなどのミュージシャン、脳科学茂木やらの文化人などなどなど。手塚が生前に残したアトムとウランのや、映画劇中にとったゴジラのもあった。
このそうそうたるメンツのいい歳した大人たちがとる"シェーッ!"ポーズは、思わず頬が緩んでしまうし、なかなか貴重でもあって、必見。とくに石野卓球のシェーッには唸ってしまった。さすが卓球、写真もテクノ!という一際かっこのよい写真になっているので、ドントミスイットよこれはホントに。
これらほとんどの写真はカタログにも掲載されず、とにかく見に行かなければ一生見られないものなので、9月7日までの開催期間中、興味のある方は週末にでも行ってみてはどうかしら。

半券なのだ。グラフィック処理にバッチリはまるこの線の美しさったら。

追伸:「お茶と同情」完結篇は次回に持ち越し。あそこから結末に至るまでの話を書き起こすのって、これが結構手間なのよ。

# by wtaiken | 2009-08-27 03:49 | Trackback(1) | Comments(0)

お茶と同情

これまで何度か仕事をしたことのある広告代理店や制作プロダクションへ赴き打ち合わせをする。打ち合わせ中、たいがい、夏ならアイス、冬ならばホットのコーヒーが出てくる。事務系の人がやって来てひとりひとりの前へカップを置いていく。周りのみんなには黒い飲み物がなみなみとつがれているが、なぜか私ひとりだけ緑の飲み物なのだ。
緑の飲み物、などと書くと「青汁かよ、おい!?」と思われる向きもあるかと思う。打ち合わせの最中に会田は青汁を飲んでいるのか、といぶかるかもしれない。あるいは仲間はずれにあっているのか。ひとりだけ青汁攻撃をされているのだろうか。すわ、いじめだ。ところが品質改良されて意外と飲みやすい口あたりに、思わず「もういっぱい!」などと調子に乗ってやしないか、と余計な心配をしているかもしれない。安心して欲しい。私の前に置かれたのは、青汁でもワタナベの粉末ジュースメロン味でもスライムでもない。じゃあなんだ。お茶だ。当たり前だ。
私はコーヒーをほとんど飲まない。かなり甘めのコーヒー牛乳系ならまだしも。しかし会議中の飲み物にMAXコーヒーは出てこないのだった。

この私のコーヒー嫌いが何度かその会社に行き来しているうちいつの間にか伝わりし、だからわざわざ特別にお茶を出してもらえるのだ。
ことわっておくが、なにも私はわがままを押し通しているわけではない。出されたコーヒーに対し「あ、私苦いコーヒーは飲まないんで、とっても甘くて牛乳たっぷりなコーヒーかお茶にしてください」と傲慢な発言によりその権利を勝ち取ったわけでは決してない。
出されたものには文句は言わず、事前に「飲み物はなんにしますか?」と訊かれた場合に限り、ただ「お茶がいいです」と言ってきただけのことだ。
いや待て、みんながみんな「あ。じゃあコーヒーで」と付和雷同して当たり障りなく頼んでいるところに、ひとりだけお茶を要求すること自体が我がままではないか、と言う人もいるだろう。しかしそんなA型理論は通用しない、そうよ私はB型の人、訊かれたから素直に答えたまでのことじゃないか。
こうして私はさまざまな仕事先で、コーヒーを飲まずお茶を好む人、で通っている。

そんな私が、だから今更「このところ実は私、お茶を控えているんです」などと言えるわけがないだろう。
もし仮に口にしたら、きっと多くの代理店やプロダクションの事務系の方々は困惑しきった顔でこう言うに違いない。
「なんなんですか、あなたは! コーヒーは嫌いだと言い、お茶がいいと言うから特別に気を回していつも出していたら、今度はお茶も飲まないと言う。お茶を控えていると言う。だったらこれから私たちはあなたになにを出したらいいんですか! 夏には冷水ですか!冬なら白湯ですか!」
いやまあ、夏の冷水はともかく白湯は勘弁して欲しいものだ。ちなみに白湯はさゆ、パイタンとは読まないでよね。

私はいまでもお茶が好きだ。好きだ好きだ大好きだ。だのに私はお茶を控えている。好きなのに、控える。不条理かつそれは如何にも曰くありげだ。

話はかれこれ5ヶ月も前の、3月末にさかのぼる。
その日、私は何日かにわたる編集作業のただ中にあった。

ここでポストプロダクション、撮影後の作業行程について簡単な説明をしておきたい。
撮影された素材はまずCM、Web、店頭、社内インナーなどさまざまな使用用途に合わせた尺へおおまかにつなぐ仮編集という作業を行う。その仮編集段階の映像を広告代理店へ、つづいてクライアントへ試写をする。まずこの段階の試写ではさまざまな意見が交わされることになる。
クライアントが求める映像になっているかが大きな争点のひとつであり、おおよそ問題なく出来に満足してもらえることもあれば、クライアントはもちろんのこと広告代理店からの指摘、要望が細部にわたったり、ひどい場合は根底から覆って、かなりの修正編集をしなければならなくなることももちろんある。
それらチェックバックとともに、仮編集では行えなかった合成などの作業や細かい演出的な意向を加え本編集作業に入る。
そして本編集終了間際に合わせクライアントに編集室に来てもらい、最後のチェックが行われる。仮編集での問題点がきちんと解決されているかがチェックの主になるが、この後に及んでクライアントから、こちらのまったく予想していなかった新たな要望が飛び出すことがある。
それが許される編集スタジオの拘束時間内で作業が可能ならば対処はやぶさかでないが、許容範囲外の無理難題については易々と受け付けるわけにはいかなくなる。
つまり我々制作サイドとしては、一度仮編集試写というカタチで確認し問題点を洗い出す段取りを踏んでいる以上、それらを反映した本編集であるのに、根底を揺るがす問題であったり、突拍子もない修正要望がされるともはや決められた時間での対処は不可能となり、大抵は「ちょっと待てよ」とストップがかかる。
そこで登場してくるのが、広告代理店営業だ。彼らはこんな場合しっかり折衝し、我々サイドの防波堤となって、制作側と受注側両者の着地点、折り合いをつけようと試みる。ロジックでどうにか説得することが多いが、それでも首を縦にふらないクライアントには最終兵器「時間と予算」の関係を口に出すことになる。イレギュラーな意見を汲むにはこれだけの時間とこれだけの超過予算がかかります、それでも押し進めますか、という説得だ。
この切り札で、物わかりのいいクライアントは折れて丸くおさまるのだが(これを”丸くおさまる”と表現するのは疑問だが)、ありがちなのが鶴の一声的なクライアント最重要人物が最後の最後になって、有無も言わさぬ高圧的な「予算も何もそんなことは知ったことか」の一点張りで「とにかく直せ」と梃でも動かなくなり、無理矢理無茶な修正作業を余儀なくされることもあるのだ。

その日の仕事はグダグダなパターン、スケジュールを度外視したクライアントの暴走は止まるところを知らず、当然行われた「時間と予算」の説得はとうの昔に無視されて、仕上がりの見えない泥沼のような編集は幾日かの徹夜がつづき、どんよりとした雰囲気の中、業界で言う”てっぺん”午前0時を優に超えた未明の3時を回った頃、微に入り細を穿った要望のすべて盛り込んだ編集が一通り終わり、それを観たクライアントからようやく「じゃあ、これでいきましょうか」のOKが出たのだった。
過酷極まりない暗闇を行く耐久レースのような編集作業も、フィニッシュに向けなんとか光が見えてきたようだ。クタクタになりながらもホッと一息、納得されたクライアントをつくり笑顔で送り出し、さてここで我々スタッフの夕食時間とあいなった。クライアントが編集室にいる手前、彼らを待たせて食事をとるわけにはいかないから、帰ってくれるまではお預けを食っていたのだ。
お昼ごはんを食べてからかれこれ時計は一周半も回っている。ここまで待たされると、もうお腹も減っているのかいないのかよくわからない状態だ。
徹夜続きの編集でさすがに胃も腸も弱ってきているし、もう明け方の4時だ、ここはひとつなにかさっぱりとしたものでも食いたいところだ。

「弁当なに?」そう訊く私に、制作は幾分申し訳なさそうに「とんかつッス」という。
とんかつである。よりによってとんかつである。未明の揚げ物。この時間帯に一番食べたくないおかずアンケートNO.1であろうとんかつ、だ。編集もさることながら、食事までもが過酷とはな。とんかつ事変の勃発だ。
しかも見ると出前の弁当は、サービスのつもりか尋常でないくらいの分量なのだ。かつてんこ盛りだ。透明の上蓋が盛り上がっているじゃないか。店主め、いらぬことを。大食い選手権か、お前は。
げんなり、というのはまさにこういう時に使う言葉なんだな、としみじみ思いつ、この選択をしでかした制作を私は責めるわけにはいかなかった。
我々の胃への気遣いがなかったことはいくらか問題視されても、これほどまでに夕食がズレ込むことは考えてもいなかったろうし、まだ彼は若く、疲れた体にスタミナのありそうなとんかつをという、よかれと思った彼なりのチョイスだったこともわからなくはなかったからだ。
そもそも仕事中に出される食事がなんであろうと、そんなことに文句を言うなんてもってのほかだ。
実はスタジオにおける食事については、スタッフ間でもめ事の対象になることがたまにあるのだ。だから制作は気を回し、さまざまなスタッフに対して選択肢を与えるよう数種類の弁当を発注をする。たとえば中華なら、マーボ茄子に青椒肉絲と鶏肉とカシューナッツ炒め、都合3種類の弁当からお選びいただけます、といったふうに。
でも今日はとんかつの一点張りなのだった。数ある弁当の、どこをどう取ってみても山盛りのとんかつ弁当だ。とんかつ…なんだね。いやいいんだよ、別に。
「さ、食おうよ食おうよ、うまそうじゃないか。なあみんな」
またこれが食べはじめてみると、付属のソースが濃いめときて、ビシビシと弱った胃を攻撃してくる。考えていた以上にヘビーな夕食だ。くそう、制作、てめ、このやろう。
こうして日頃快食の私が、珍しいことにとんかつ弁当のかなりの分量を残すことになってしまったのだった。

と、ここまでの話から、一体いかに私が「好きなお茶を控える」ことになるのか、「風が吹けば桶屋が儲かる」にならって転がしてみたところで到底たどり着けないだろう、想像を絶する、驚愕の真実は次回更新へつづく。

# by wtaiken | 2009-08-22 23:22 | ああ、監督人生 | Trackback(3) | Comments(0)

どこかでそれはきっと行われている



熟女は椋陽児を参考にしましたよ。
織田裕二、なかなか似てね?
さぁてと、仕事だ仕事。

# by wtaiken | 2009-08-20 04:42 | 犬のまんが道 | Trackback | Comments(0)

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